主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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受難節第2主日礼拝 説教 「起き上がりなさい」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年3月8日

   ヨハネによる福音書5章2~9節a


「起き上がりなさい」 要約
① 主イエスとの「出会い」
 エルサレムにベトザタと呼ばれる池があります。この池は間欠泉で、時折鉱泉が湧き出て水を動かすことがあり、その時、真っ先に池に入る者は病気が癒されるという噂があったため、池の周りは、病人が常にいっぱい。彼らは皆、池の水が動くのを気長に待っていました。ある時、主イエスがこの池のほとりに来られ、多くの病人の中から38年間も寝たきりの人を「見、また、もう長い間、病気であるのを知って」(4節)、憐れみのまなざしで、近づいて来て下さいました。愛とは、十羽一からげの行為ではなく、一人の上に注がれる憐れみのまなざしです。人間は身も心も魂も完全に健康だと豪語できる人は一人もいません。何かしら「良くなりたい」ものを持ちつつ生を営んでいます。主はそういう人間と共にあり、私たちのかたわらに立って語りかけ出会って下さいます。その形や時と場所は様々です。エルサレムだけでなく、日本、アジア、アフリカ、その他、世界のいたる所で、主イエスは生き、今も、私たちと出会って下さっているのです。
② 主イエスの言葉との「出会い」
 主イエスは38年間ねたきりの人に「起き上がりなさい(エゲイロー)」(8節)と命じました。この人はもう、池の水の動くのを待って、水の中へ入る必要はないのです。池の水よりももっと力のある、もっと確かな癒しの力、それを主イエスの「起き上がりなさい」という言葉によって、この人の38年間、煩っていた病は癒されました。「起き上がりなさい」には、二つの動詞の命令形が並べて語られています。「起きよ」と「立ち上がれ」です。「起きよ」は目覚めること、眠りから覚めること、生きる希望へと呼び覚まされることです。この人の38年の病を負う人生は、いわば、<眠れる灰色の人生>でした。ここで、この人は初めて、生きた人間としての生へと、その心が目覚めさせられたのです。この人は38年間ねたきりの状態でした。床はこの人の人生をそこに横たえさせた、束縛する過去の重荷の象徴でもあったのでしょう。が、主の言葉と「出会い」によって、この人は、重荷から解放されました。そのような力を主から与えられたのです。
③ 起き上がりなさい
 主イエスはベトザタの池の傍らに横たわっていたこの人に「起き上がりなさい(エゲイロー)」と言われました。エゲイローには「立て直す」、「死人がよみがえる」の意味もあります。主イエスに「良くなりたいか」と声をかけられた時、この人は「誰も自分を気にかけてくれない」と病気や体の不具合の苦しみよりも、周囲の皆に無視され、友人はなく、孤独と絶望の極限状況にありました。その絶望のどん底に沈み切ってしまっているこの人を、主イエスは「見」、そして「知って」、憐れみのまなざしで近づき、「良くなりたいか」と語りかけ、「起き上がりなさい」と命じたのです。生きながら死のとりこになっていた者に「立て直しなさい」と言われたのです。正にこの人の「甦りの瞬間」でした。病人の暗くて長かった年月は、神の光の一瞬に甦りました。燦々と光輝く希望の未来へと変化したのです。そして主はあなたにも「起き上がりなさい」と呼びかけています。イエスの御業、御言葉に、十字架の光と甦りが宿っているのです。私たちは心を大きく開いて、私たちに与えられた神の御子の業をシッカリと受け止めようではありませんか。光の子として立ち上がりましょう。燦々と輝く光の中へ「起き上がって」前進して参りましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.3.8 nk


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