主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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受難節第1主日礼拝 説教 「良くなりたいか」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年3月1日

   ヨハネによる福音書5章2~9節a


「良くなりたいか」 要約
① 「ベトザタの池」の物語
 エルサレムの東北に「羊の門」という城門があり、その門の近くにヘブライ語で「ベトザタ(=憐れみの家・恵みの家・祝福の場所という意味)」と呼ばれる池がありました。この池は“間欠泉”のようで、<時折、鉱泉が底から湧き出て水面を動かすことがあり、その時、真っ先に池に入る者は、どんな難病奇病も癒される>という言い伝えがありました。そのために、この池の五つの回廊には「病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた」(4節)ようです。この様は、私たちのこの世の縮図ではないでしょうか。元々この世は神がお造りになった恵みの家・祝福の場所であるはずです。しかし現実は、近視眼的に物を見ようとする「目の見えない人」、他人の意見を聞こうとしない「耳の不自由な人」、自立できないで他人に頼ってばかりいる「足の不自由な人」、そういう大勢の病人がひしめき合っていると言えるのではないでしょうか?そこにイエスが来られ、38年も病気で苦しんでいる人物と出会われます。
② 主に在って大丈夫!
 私は、教会というものは、社会の中で虐げられ悲しむ人に目を留め、社会の弱い人の味方であり続ける事だと思っています。この病気の人については、財産持ちであったとか、地位があったとか、名誉ある人であったとか、何も記されていません。名前、性別、国籍、正確な年齢、何も分からないのです。私たちもこの人と同様だと思います。たとえ今、地位や名誉や財産があり、有名であったとしても、それは一時的なものであり、やがて忘れられていく存在です。そのような小さい、取るに足りない私たちにも、38年という長い間、病気であった人と同じように、主イエスは優しいまなざしで、目を留めて下さり、出会って下さり、社会の中で、虐げられている人、悲しんでいる人、病気で苦しんでいる者に対して、ご自分の方から声をかけて下さいます。「良くなりたいか」「主に在って大丈夫!」、「今、わたしに出会っているではないか、もう大丈夫!」「神様はあなたを愛しています」「信じていきましょう!」「神様はあなたに最善をして下さい」と。
③ 良くなりたいか
 主イエスは38年間苦しみ続けた人に「良くなりたいか」と問われました。一見、奇妙な質問です。この人は「良くなりたい」一心でここに38年もの間、池の水の動くのを待ち続けてきたのです。が、主はこの人の心の状態を浮き彫りにします。「水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいないのです。私が行くうちに、他の人が先に降りて行くのです」(7節)。池の面ばかり眺めてきた38年の間には自分が真っ先に「あっ今、動いた!」と発見した事もあったでしょう。真っ先に入ろうとしますが、他の人が先に飛び込んでしまうのです。自分は一人では立てない、歩けない、池に入れない。人に助けを求めても、周りにいるのは自分が助かりたい病人ばかり。そうした不平不満でいっぱい。「良くなりたい」と素直に答えられないこじれた心。池の面を見つめ続けるうちに、「良くなりたい」という最初の願いが、いつの間にか、池に入ること、それだけが最終目的になってしまっているのです。私たちも又、初心の状態のまま、ここに存在しているでしょうか。主の「良くなりたいか」が聞こえます。これは「安心して暮らしたいですか?」と言い換えることができます。主に在って大丈夫!「信じて、安心して暮らして」いきましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.3.1 nk


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