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降誕節第9主日礼拝 説教 「一人が蒔き、一人が刈る」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年2月23日
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ヨハネによる福音書4章27~38節
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「一人が蒔き、一人が刈る」 要約
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① いずれまた渇く「井戸の水」、いつまでも渇かない「命の水」 |
主イエスは、サマリアのシカルという町のヤコブの井戸端で一人の罪の女性と出会いました。ヤコブの井戸のほとりで、サマリアの女性はイエスが交わして下さる対話を通して、いずれまた渇く「井戸の水」とは違った、いつまでも渇かない「永遠の命に至る水」があることを知ります。彼女は主との長い対話の中で、それがイエス・キリストによって与えられる「命の水(聖霊の伴なった命の言葉)」であることに気づきます。かつて5人の夫や更に多くの人々との人間関係に疲れ、常に愛と慰めに飢え渇いていた彼女は、この「命の水、聖霊の伴なった命の言葉」に、これまでに経験することのなかった主イエスの赦しと、愛と、慰めを得て、次第に心の底から潤されていき、そして裁かれつつ赦され、古い人間から「新しい人間」へとつくり変えられていきます。このような<イエスと私>との出会い、「新しい対話」が、彼女の人生において、いかに大きなことであり、驚きと喜びであったかということを、28節のような振舞いが鮮やかに示しています。 |
② 「女は、水がめをそこに置いたまま 町に行き…」(28節) |
<女は水がめをそのままそこに置いた>。ここで使われている「そのまま…置いた」の原語「アフィエーミ」は、「後に残す、放置する」という意味です。「放棄する」という意味もあります。命の源である水を運び蓄えておくために不可欠な水がめ、自分の大切な水がめを、放置、むしろ放棄して、わざわざ水を汲みに来たことも忘れて、女性は、町に入って行きました。そして誰にも触れられたくないはずの自分の破れ、「行なったことの全て」を告白し、それを知りつくしている方を証しします。いずれまた<渇く井戸の水>ではなく、いつまでも渇かない永遠の<命の水>の根源であるイエス・キリストを伝道したのです。しかも全てが分かったから確信があるからというのでなく、「もしかしたら、この方がメシアかも知れません」という曖昧さと不確かなまま、主を伝道するのです。それで十分!このことから私たちもこの女のように「さぁ、見に来てごらんなさい」とイエス・キリストのもとに人々を連れて来ることが<伝道>であると学びましょう! |
③ 一人が蒔き、一人が刈る |
「あなた方は刈り入れまでまだ四か月もあると言うが、目を上げて畑を見るがよい」(35節)は、伝道には絶えずチャンスがあるということを教えています。色づいて刈り入れを待っている稲穂のようにイエス・キリストの福音を待ち焦がれている人が身近なところに沢山、備えられているということです。そして福音の種は、「一人が蒔き、一人が刈る」といった連鎖の中でなされるものです。ここにおられる私たちは、私たちに先立つ多くの人々が労苦して蒔いた種によって救われたお一人一人です。今私は恵みの刈り入れをさせていただいているという感謝でいっぱいです。私たちは独りで働いているのではありません。多くの人々の祈りがあり、助けがあり、何よりも主イエスが一緒に働いていて下さっています。38節に主は「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」とあります。すばらしいことです。あなたもその意味では種蒔く人です。今この伝道所から一人の神学生を出しています。もう一人の伝道者を生み出せたらと願っています。そのために種を蒔く人も刈る人も共に顔を輝かせ喜んで主の業に励みましょう!
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