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降誕節第5主日礼拝 説教 「途方に暮れても」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年1月26日
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ヨハネによる福音書2章1~11節
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「途方に暮れても」 要約
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① 途方に暮れる |
主イエスは弟子たちを伴って、ガリラヤのカナでの婚礼に出席していました。カナはナザレからほんの10キロばかり北に寄った町です。イエスの妹の一人の結婚式で、母もそこにいました。歓喜と希望と、新しい出発への祝福が照り輝いていました。婚宴は時として1週間も続いたそうで、貧しい農民たちにとって何よりも楽しい時でした。その最中、ぶどう酒がなくなってしまったのです。台所で働いている人たちは、途方に暮れました。「極楽と地獄のどんでん返し」という表現通り、新郎新婦ともに居場所がなくなてしまいます。ぶどう酒が欠けるとは、私たちの信仰生活、教会生活の中で、聖霊が欠けているという事です。聖霊の交わりと導きを失った教会は、ぶどう酒がなくなって白けわたった婚宴のように、教会員たちは礼拝に集った意味を見失い、人々を教会に導く情熱をなくし、惰性と習慣とだけで、屍のようにここに留まるか、又は他に情熱を燃やし得るような運動に身を投じてしまうのです。人は誰もが、このような経験を持っています。 |
② 「最初のしるし(奇跡)」が起こる |
マリアはぶどう酒がなくなってしまった時、何もしませんでした。彼女はただ真直ぐにイエスの所に行きました。そしてこの当惑すべき状態を素直に、かくさずにイエスに告げました。「ぶどう酒がなくなってしまいました」ただそれだけです。それが、彼女のした全てです。教会が、その窮乏や困難、当惑すべき状況を主イエスに訴えたとしても、直ちに神の働きが開始されるわけではありません。神の業は「神の時」にだけ起こります。だからイエスはマリアに言いました。4節「わたしの時はまだ来ていません」。私たちが自らの欠乏や教会の困難を祈り、訴えても(それは私たちにできる唯一の事ですが)、主がマリアに答えたと同じように拒否されます。大切な事は神が拒まれる時、マリアと共に「神の時」が来るまで忍耐をもって待つ事です。勿論、主の時は「降臨の時、十字架の時、復活の時」です。まだマリアの時は来ていません。母は召し使いたちに頼みます「この人が何か言いつけたらその通りにして下さい」。主に対する全幅の信頼です。 |
③ 途方に暮れても |
2~3メトレテス入る水がめが6つありました。主は「水がめに水を満たしなさい。それを世話役の所に持って行きなさい」と言いつけます。1メトレテス=39,39ℓ、約100ℓ入る大がめに水を入れると15㎏、それが6つです。当時のパレスチナは、町ごとに井戸は1つしかありません。召使いが3人なら、1人が100回水を運ぶことになります。召し使いたちはそれをやり遂げました。水がぶどう酒にかわった瞬間です。「最初のしるし」です。どんなプロセスで水が「アルコール」にかわったのか、この奇跡の秘密、その理由、化学変化のプロセスの説明は分かりません。聖書にも一言も書いてありません。が、確かに芳醇なぶどう酒だったのです。世話役は、知らなかったので、花婿を呼んで言いました。「誰でも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわった頃に劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」。私たちは行き詰まって、もう、どうにもならないと、途方に暮れる事があります。そんな時に、私は「この方が、あなた方に言いつけることは、何でもする」という謙遜な服従をもって、主の栄光の現わされる「時」を待ちたいと思います。そしてその時に初めて奇跡が起こるのです。神の栄光がありますように。
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