主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
印刷用PDF

降誕節第4主日礼拝 説教 「イエスと心を通わせ

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年1月19日

   ヨハネによる福音書1章43~51節


「イエスと心を通わせ」 要約
① 「わたしに従いなさい」43節
 フィリポはイエスから声をかけられます。フィリポから求めてついて行ったのではありません。それは突然の出来事でした。同じ村に住むペトロとアンデレがイエスに従っているのは知っていましたが、まさか自分に声がかかるとは…。イエスの招きは人間が期待していない時にも起こります。イエスに出会い、招きを受けたあと、フィリポはナタナエルにイエスを証しします。「来て、見なさい」。フィリポも、主イエスがヨハネに言われたのと同じ言葉でナタナエルを誘ったのです。すべては、まず主イエスのもとにつれて来ることから始まります。フィリポは自分の知っている情報で友人のナタナエルを誘いました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」という常識的な疑問を示す彼を動かすのは、完全でなくても、フィリポ自身の存在から出た証言の力強さです。伝道は主イエスのもとに連れて来ることから始まります。そのあとは、主が働きかけて下さいます。主イエスは全能です。主を固く信頼して、友人を主のもとに連れて来る事から始めませんか。
② 「どうしてわたしを知っておられるのですか」48節
 ナタナエルは自分が疑問に思った事を確かめるために、イエスのもとへ近づいて行きました。が、彼もまたフィリポと同じように、イエスの方から声をかけられます。「どうしてわたしを知っておられるのですか」。ナタナエルは自分が既に知られていることに驚きます。情報で知られているのではなく、自分の本質を優しさと思いやりの目で、主に知られていることに気づき、驚きと畏れで一杯になります。私は知られている。この感覚は、私たちが神の前に引き出された時に持つ感覚です。自分の全存在が、神のまなざしの中に捕えられており、神の御手の中にあることを知った時に感じる畏れです。常識、知識によって、イエスを確かめるために、イエスのもとへ来たナタナエルは、確かめる前に、主が思いがけず、自分の全存在を捕えて下さっているという畏れに深く打たれました。この感覚が彼の疑問を打ち砕き、ナタナエルを信仰告白へと導いたのです。私たちも、もっと主イエスを信頼して、友人を主イエスのもとに連れて来たいと思います。
③ イエスと心を通わせ
 51節の「はっきり言っておく。天が開け、神の天使が人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」というのは、イエスの召命物語のクライマックス(頂点)です。ここで「人の子」とは主イエスのことです。神と人間の交流の開始が主イエスによってなされた事を意味します。この言葉は、「あなたがた」弟子となった者すべてに与えられています。「神の天使の昇り降り」は、生き生きと、生きて働く神の姿を表現しています。主イエスにおいて天と地を往ったり来たりする神の天使たち。礼拝する中で、私たちは主イエスと心を通わせているのです。その事を実感し困難を克服する力を神から与えられるのです。深い確かなまなざしによって私たちは捉えられているのです。この事実に、気づくことができますように。聖書の神、キリスト教の神は、私たちの生において「共にいます神」、即ち、私たちと「共に歩んで下さる神」です。主が私たちのような者の中にも真実を見出していて下さることが、どんなに大きな慰めになる事でしょう。主イエスが誰に紹介して下さらなくても、そのようにして父なる神に私たちを紹介して下さる。その恵みに変わりはありません。このことが私たちの変わらない慰めとなりますように!

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
TEL/FAX 0467-54-1300
日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.1.19 nk


Copyright 2010 Chigasaki Tutumi Dendosho  All Rights Reserved