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降誕節第3主日礼拝 説教 「光はここに」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年1月12日
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ヨハネによる福音書1章6~18節
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「光はここに」 要約
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① 主の年2020年も<前向き・肯定的に>! |
『ヨハネ福音書』はイエスを「父のふところにいる独り子である神」(18節)と記します。このイエスの前に(バプテスマの)ヨハネについて説明しています。彼は証しするために遣わされた人です。「証し」とは、確かである証拠をハッキリと示す事です。彼は、光である主イエスについて、声を張り上げて、証しをします。「彼は光について証しをするために来た」(8節)という言葉がヨハネの役割を示しています。彼は沢山の人に向かって証しを続け、多くの人がこの証しを耳にしました。ここで大切なことは、ヨハネが証ししたのはヨハネ本人の証しではなく、「光である主イエス」についての証しです。主イエスという光について、「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らす」(9節)と証しします。「まことの」とは、「本物の」という意味です。にせ物の光は蜃気楼のように実態がなく、近づくと輝きを失ってしまいます。が、このヨハネが証しする主イエスという光はまことの光です。近づいても輝きが失せることがない本物の光なのです。 |
② 「まことの光」なるイエス |
まことの光は「すべての人を照ら」します。「照らす」とは暗い部分に光を当てて明るくする事であり、隠していた(隠されていた)ことを明らかにする事でもあります。主イエスは心に深い暗闇を持った人を照らし、明るくする光です。そして自分には欠けている部分や落ち度が全くないと考えている人が隠していた(隠されていた)「罪」を明らかにする光でもあります。続いて14節では「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られ」た(14節)。しかしながら、残念なことに「言(イエス)」は世に認められず、民から受け入れられませんでした。ここに、イエスの言動は「恵みと真理とに満ちて」いたとある「恵み」というのは、私たちの努力や行動のおかげで何かが与えられるのでなく、一方的に与えられるものです。主イエスに癒され、奇跡を起こして頂いた人々は皆、主イエスから無償で一方的に恵みを頂きました。正に主イエスのお語りになった事はすべて真理でした。「真理」とは、時代や地域を超えても変わらない真実なのです。 |
③ 光はここに |
ヨハネ自身は「光」ではなく、主イエスこそが「まことの光」です。そのことをヨハネは声を張り上げて一生懸命に証ししました。もし私たちが「光になりなさい」と言われたら、それは、至難の業です。でも聖書は、ヨハネは「光について証しをする」人物だと語るのです。私たちがどんなに努力しても「まことの光」にはなれません。が、「光について証しをする」事はできます。月は自ら輝かなくても、太陽の光を受けて輝きます。「光はここに」という礼拝説教の中で私たちが「まことの光」を受ける時、私たちは小さなヨハネです。ヨハネのように大声で証し出来なくても、「まことの光」を受ける中で、私は「神から必要とされている」「この地上に遣わされている」「生きる意味がある」「生きなければならない」という希望の光が燦々と降り注ぐでしょう。あなたが今こうしてここに存在しているのは自分の意志でなく、神があなたを選んで、今ここで生かしておられる大切な、かけがえのない、尊い存在であることに気づくでしょう。光はここにあります。シッカリ受けとめましょう。喜びましょう!感謝しましょう!信じましょう!自分なりの仕方で真実の光を指し示しましょう!今日から私たちも小さなヨハネです。祈りましょう!
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