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待降節(アドベント)第3主日礼拝 説教 「クリスマスに見出された者」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年12月15日
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ルカによる福音書19章1~10節
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「クリスマスに見出された者」 要約
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① 人の子は、失われたものを捜して救うために来た(19:10) |
今朝は『ルカ』15章から語られ続けてきた主の「失われたものを見出す物語」の最終回です。ローマ帝国はその族州において少しでも重税を搾りとるため、徴税人の頭たちの中から最も税率の高い者に徴税を背負わせました。徴税人の頭は徴税人たちを使って取り立てをし、請負額以上を集めれば自分の膨大な利益になる仕組みです。関税はカイサリア、カファルナゥム、エリコなどで徴収され、ザァカイはエリコ全域の徴収権を持っていました。エリコはローマ式の壮大な都市で、彼は大金持ちで家はローマ風の立派な屋敷でした。彼は人々を苦しめる事によって自分の手の中に転がり込んでくる金や財産を見ながら生活していました。が、異教の支配者の手先として同胞を苦しめる徴税人は罪人や遊女と共に憎悪されており、彼は金で豊かになるのに反比例し、心は貧しくなる一方でした。その時イエスの噂(徴税人や罪人と飲食を共にする)を聞きました。彼はイエスを見たいと思いました。彼の思いは物好きや興味からでなく純粋で真剣な思いでした。 |
② ザァカイ(純粋という意)に起こった出来事 |
ザァカイは金で代表されるこの世の全てのものを見て来ました。が、心の空洞は拡がるばかり。イエスに会いたい、話をしてみたいと思うも、太っていて背が低く、かっこう悪い彼は群衆にさえぎられて見る事さえ出来ません。が、どうしても見たいという純粋で真剣な思いが一つの行動を起こします。彼は全力で走って行って、いちじく桑の木に登りました。この真剣な行動も人々の目にはかっこう悪く見えるかも知れません。イエスを純粋に真剣に求めるという姿は、決してかっこうよくはないでしょう。ザァカイにとって木に登るということは一つの求道であり、祈りでした。このような求めに対して、むしろ、このような求めに先立って、イエスは「今日、あなたの家に泊る事になっている(デーイ・必然、定めなどの意)」と告げました。人の子イエスが罪人ザァカイの家に滞在するというのです。これこそ神の必然であり、イエスの生と死の意味なのです。ザァカイは生まれかわりました。一人のザァカイの救いは、全家族の救いとなったのです。 |
③ クリスマスに見出された者 |
ザァカイ物語の9節に、主は、「救いがこの家を訪れた」と語っています。「この人に来た」のではなく、「この家に」来られたのです。ルカが読卷として書いた『使徒言行録』を読むと、彼が<家ごと救われる>のをとても大切にしていた事が分かります。ザァカイに妻や子供がいたかは分かりません。雇い人たちはどうしたのかも分かりません。そんな事より、ルカが何よりも先ず語りたかった事は、<家族の誰か一人が、主が訪ねて下さっている事に気づき、信仰を言い表すなら正にこの時、家族全体に救いの歴史が始まる>という事です。今朝この礼拝に家から一人で来られた人に、「今日、あなたの家に救いが来た。救いが始まった。あなたを通じてあなたの家がまるごと祝福の中に置かれた。その事を信じなさい」と命じているのです。この祝福はこの家だけで終わるのではありません。更にこの世界が祝福の中に置かれる事をも意味しています。私たちは皆クリスマスに見出された者です。今アドベントを過ごしていますが、一日一日と時満ちて、次週はクリスマスです。クリスマスを迎える喜びを、分ける喜びを、人を迎え入れる喜びを、人と共に生きる喜びを、祝福を告げる喜びを、神の愛と救いがクリスマスの喜びとなりますように! |
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