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降誕前第8主日聖徒の日・永眠者記念礼拝 説教 「み翼のかげに」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年11月3日
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ルカによる福音書13章31~35節
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「み翼のかげに」 要約
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① 永眠者記念日 |
今日は17名の召天者の合同礼拝です。お一人ひとりを覚えて、共に礼拝をささげています。宗教の現代社会に果たす最も大きな役割は何かと問われて、宗教学者桜井匡先生は「死の解決」と即答されました。どんな時代でも、死の解決は宗教によらなければ不可能でしょうが、その死の解決にも「あきらめ」があり、希望を与えるものなど様々です。『平家物語』は「祇園精舎の鐘の音…」と、人生の無常を記したものです。聖書は「人間は土の塵であり、塵はもとの塵に帰る」と示します。が、人間は、他の動物と違い、「形あるものは壊れ、生あるものは必ず死ぬ」という自然現象、生物学的法則以外の意味があります。創世記2:7には、「神は土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。人は「神の命の息」即ち神の霊によって人間となったのです。人間は自分の力によって生きているのではなく、神によって生かされているものです。従って、人間は神の前に責任がある存在だという事です。 |
② 死の解決 |
人が死ぬこと、死んだ後、審きを受けること、これは定められた人間の宿命です。しかし、愛なる神は滅び行く人間のために、イエス・キリストをこの世におくって下さいました(ヨハネ3:16)。その結果、罪ある者が赦され、新しい命に入るのです。聖書(Ⅰコリント15:26)は、死を「最後の敵」と言っていますが、これがキリストによって滅ぼされるのです。死について考えましたが、もう一つ、生について学ばねばなりません。死の解決がなされた人ほど幸いな、又、強い者はありません。その人は、何でもできます。パウロは死の解決のできた人でした。彼は「死ぬことは益である」(フィリピ1:21)とさえ言っています。が、「生きる」ことは人々のために必要だと信じるから、生きて働くと言っています。ですから人々にも「いつも全力を注いで主の業に励みなさい。主にあっては、あなた方の労苦が無駄になることはない」(Ⅰコリント15:58)と奨めています。鈴木正久氏が膵臓がんで亡くなる時の言葉は、「死の解決ができた時こそ、本当の今日の生き方ができる」。 |
③ み翼のかげに |
今この礼拝堂にあって神の御前に立ち、詩篇61篇を交読し、座ってルカ13:31-35を聞きまして、正直に自分の心を見て、この1週間、ひと月、1年の自分の生活が姿を表わしてくるのを受け止める思いを強くしました。なぜ、まだこの苦しみが続いているのかと悲しみが突きあげて来て、祈り始めている方もあるでしょう。あるいは喜びに溢れて感謝している方もあるでしょう。喜びがあっても悲しみがあっても、辛いことがあっても望みがあっても、私たちはここに集まる。「あなたは私の避け所、堅固なやぐらです。私を永遠にあなたの懐に住まわせ、あなたの“み翼のかげに”逃れさせて下さい」と詩篇が歌うように、喜びや悲しみ、苦しみを抱えたままに、しかし、右往左往してしまう私たちを、確かなやぐらである、神によって覆われたいと願うのです。この朝、私たちはこの詩篇を、ルカ13章のお言葉に重ねて覚えました。改めて13章を読む時、胸をつかれるような思いに捕らえられます。わけても13節は、頂点をなす主の嘆きの言葉です。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように」主イエスは、今日も明日も、その次の日も、現実の私と共におられ、私たちの逃れ場になって下さいます。信じて、主と共に生き、共に復活しましょう!
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