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聖霊降臨節第15主日礼拝 説教 「善いサマリア人」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年9月15日
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ルカによる福音書10章25~37節
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「善いサマリア人」 要約
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① 「律法の専門家」と「イエス」 |
律法の専門家がイエスに聞きます。「先生、永遠の命を得る為には何をしたら良いでしょうか」。そこで「律法には何と書いてあるか」と問います。勿論、律法の専門家はそらんじていますから「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛せよ」と書いています。そして「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」とあります。するとイエスは、「よく言った。あなたも、そうしなさい」と言います。それに対して「自分の隣人とは誰ですか」と人々は問い、主イエスは「善いサマリア人」のたとえを話します。「ある所に半死半生のけが人がいた。そこへ祭司が通りかかり、行ってしまいます。次に神殿に仕えるレビ人が通りかかり、彼も行ってしまいます。三番目に、普段はユダヤ人からいじめられているサマリア人が通りかかり、彼を見て、憐れに思い、手厚く介抱し、自分のロバに乗せて宿屋に連れて行き、お金を幾ばくか置いて、「足りなければ帰りに払います」と言って旅を続けます。そこまで言って、イエスは、彼に問います。 |
② 「この三人の中で、傷ついた人の隣り人は誰だと思いますか」 |
彼は答えます。「その人に憐れみをかけた人です」。イエスは「その通りだ。あなたも隣り人になりなさい」。つまり隣人とは、そこにあるものでなく、あなたが積極的に隣人となるのです。相手に向かってあなたが手を差し伸べた時、そこに隣人が生まれるのです。岩村昇医師はこれを実行すべく、ネパールのタンセン病院に赴きました。患者は5~6日は普通、中には20日間もの道のりを歩いて病院にたどり着きます。途中、病状が悪化して亡くなる人もいます。ある時の事です。道端で倒れている老婆を通りがかりの青年が背負って三日間、山また山を越え、川を渡って病院まで運んでくれました。金儲けのためでなく「サンガイ・ジュネ・コラギ(共に生きるため)」と言って青年は去ったそうです。岩村昇医師は自分の愛の貧しさを知ったと、私たちによく話してくれました。「自分を愛するように人を愛する」のは至難の業です。私たちの気に入らない人は、隣人から外してしまいがちです。隣人を探すのではなく、私が「隣人となる」事が大切なのです。 |
③ 善いサマリア人 |
譬え話に登場する祭司、そしてレビ人は、追いはぎに襲われて、半殺しにされたままの人を見たのに、助けないで、「道の向こう側」を通って行ってしまった。その心境は、私たちにもよく分かります。が、その憐れみは「憐れみ深さ」ではないと、イエスは示します。イエスの憐れみ(スプランクニゾマイ)は、「見て、憐れに思い、近寄る」という定型表現が用いられています。主は私たちの罪を、その傷を「深く憐れみ」、癒して下さいました。この主の憐れみによって初めて、私たちは「憐れみ深さ」を知る事ができるのです。サマリア人がしたことは、それほど大きな事ではありません。傷ついた人を見て、憐れに思い、近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。「この人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」。自分に出来る事だけをしたのです。傷ついた人のために最も労苦したのは宿の主人ではないでしょうか。しかしながら、私たちには、このサマリア人の姿がここではとても眩しく輝いて見えます。そのキラキラと明るく輝くまぶしさを知ってほしいと、主イエスは言われるのです。 |
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