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聖霊降臨節第14主日礼拝 説教 「断固たる服従」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年9月8日
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エレミヤ書13章15~17節 ルカによる福音書9章57~62節
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「断固たる服従」 要約
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① 弟子の覚悟 - 人の子には枕する所もない |
イエスの弟子であるということは、何よりもまず、ゆるしと愛に生きる者にほかなりません。ルカは、「何処へでも従って参ります」と言うのと、「従いますが、まず」というイエスの弟子となろうとする人のあり方を記して、イエスの弟子であるという事がどういうことであるかを、ここでハッキリと示します。最初の姿は、イエスに従う決意をした者に対して「狐には穴があり、鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」という言葉です。これは、主イエスご自身の苦難の道を示すものです。孤独と労苦が必要とされるという事です。「ゆるし」ということは、ただ自らが黙々と他者の罪責を担う事によってしか成し遂げられていかないのだから、そこには、自分の孤独と重荷を負う苦難の覚悟が必要です。人がこの覚悟を持つ時、人は、パウロが言うような「信仰の働きと愛の労苦を希望の忍耐をもって」(Ⅰテサロニケ1:3)生きる者となっていくのです。主イエスに従う信仰の決意は、愛と、ゆるしの人間、として生きることの決意でもあるのです。 |
② 弟子の覚悟 - すべてに優先させて従う |
次の二つのことは、イエスから「わたしに従いなさい」と呼びかけられて、「まず、父を葬りに行かせて下さい」と答えた者と「まず家族にいとまごいを」と答えた者の姿です。共に、イエスの弟子であることは、何を優先させるべきかを示すものです。息子が父親の葬儀を行うことは、ユダヤ教では律法に規定されている他の宗教的義務を免除される程、優先される宗教上の義務でした。しかし、神の恵みと救いは、人の生死を越えたものであり、たとえそれが最も優先されるべき宗教的義務であったとしても、それをはるかに越えたものに他なりません。そしてもし、父親の死という悲しい出来事が、まず、その生死を越えた神の恵みと救いの中に置かれるなら、父親の死と葬りは、そこで最も深い意味を持つことになるでしょう。それゆえ、義務を果たす事が大事なのではなく、父親の死を真実に神に委ねる事、神の救いの中に置くことこそが重要であるに違いありません。「まず家族にいとまごいをする」事を願い出た者に対しても、同様でしょう。 |
③ 断固たる服従 |
今朝のエレミヤは緊急の神の呼びかけです。今だ。急ぐのだ。そうでないと真っ暗になる。いつまでたっても望みなき葬儀しかない、そういう人間になってしまう。そのように告げています。旧約によれば、ある預言者の弟子になろうとした者が許されています。イエスはそれを承知の上、あの時より、もっと今は緊急であると言われます。「手を鋤にかけて」は既に働き始めている事。鋤に自分も手を添え、主イエスと共に働き始めている。そこで「先生、申し訳ありません。父母にこれから出かけると言い忘れたから別れを言いに戻らせて下さい」とお願いする。人間として当然な事です。が、放蕩息子のような家出ではない。神の国に生きるために、イエスの緊急の激しさを知る者として、そこに熱中するのです。私たちがこの熱中を忘れたら、教会である事を止めざるを得ません。今までの神の恵みを一つひとつ数えあげ、感謝しながら、主に従う事を、我を忘れて、主に従う事に熱中する思いを今、再び想起し、奮起致しましょう!年若き者にも、年老いた者にも、年盛んな者にも、主の恵みは及んでいます。今の曖昧な信仰を主の恵みによって打ち砕かれ、断固たる服従に変えて頂きましょう!そして死にも打ち勝つ平安を頂きましょう! |
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