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聖霊降臨節第10主日礼拝 説教 「罪ができあがるまで」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年8月11日
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創世記3章1節~24節
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「罪ができあがるまで」 要約
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① 善悪の知識の木 |
創世記2,3章(楽園物語)は“3幕もののドラマ仕立て”となっています。1幕は、創造の秩序の下にある人間(2:4-25)、即ち本来あるべき人間の姿。2幕は、罪の秩序の下にある人間(3:1-19)、即ち現実の人間の姿。3幕は、恩寵の秩序の下にある人間(3:20-24)、即ち信仰による人間の姿です。<神は人をつくり、鼻に命の息を吹き入れた。人はこうして生きる者となった。神はエデンに園を設け、そこに人を住まわせた>。楽園物語の始まりです。中央に2本の木(命の木と善悪の知識の木)がありました。その中の1本「善悪の知識の木」は禁断の木でした。ヘブル語では、「東から西まで」とか「上から下まで」とか両極端を表わす語を対にすると、その間の全領域を示すという語法があります。そこで、「善悪の知識の木」とは、「最善より最悪まで」即ち、「知識の全域」「すべてのこと」を知ることを意味します。即ち善悪の究極的判断は神のみの権能に属し、しかも絶対的であるという認識があったのです(創24:50.民24:13.列王上3:9.エレ42:6.コヘレト12:14)。 |
② 罪の誘惑 |
賢い蛇は女に「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と、女の潜在意識と思われるただ一つの禁断に対する不満を、極端に誇張してみせる事によって、これを顕在意識にまで引き出します。女はまんまと引っかかって、「触れてもいけない」と、神が言わなかった事を言われたと感じるまでに不満を意識し始めます。更に蛇は「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知る者となる事を神はご存知なのだ」と、神は人間が神のようになる事を恐れ、人間に嫉妬して意地悪をしているのだ、と持ちかけます。これで女は完全にやられてしまいます。「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」と、今まで特別な魅力を持たなかったこの木が、突然新しい魅力をもって誘惑します。こうして、女は実を取って食べ「一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。蛇が女を誘惑するためには6節という長さを要したのに、男の方は「…彼も食べた」と女の一声、4分の1節で片づいています。 |
③ 罪ができあがるまで |
アダム(=土)とエバ(=命)は罪を犯したのですが、未だ罪は完成していません。悔い改めの機会が残されています。彼らは裸に「恥らい」を持ったのだから、悔い改めの目覚めをしています。が、彼らは罪を隠そうとしてかくれます。しかも、神がその罪を問われると、彼らは懸命に責任回避しようとして弁解をします(責任転嫁の罪)。12節以下、仮にも自分の骨肉を分けた妻の事を“女”と呼んで、出来るだけ遠ざけ、「あなたが私と共にいるようにして下さった女」と責任を仲人である神に持って行きます(自己神化の罪)。女の方も同じです。責任を蛇に押しつけようとして、罪の方へと一途に後退して行き、堕罪は完成してしまうのです。今や人間は死すべきものとなりました。故に、命の木に手を伸ばす恐れが生じました。そこで神は彼らをエデンの園の東に追放し、命の木を遮断されます。が、神は愛です。神は、命の木を破壊されたのではありません。遮断されながらも、神の国に守られてあるのです。後に、神の独り子なる主イエス・キリストは、遮断された永遠の命の木への道の開通者となられます。主は、自らは十字架に身を裂かれながら、永遠の命を約束されました。勿論それは、キリストへの信仰によってのみ可能な事です。
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