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聖霊降臨節第4主日礼拝 説教 「主の如く生きる」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年6月30日
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イザヤ書52章13~15節 ルカによる福音書8章19~25節
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「主の如く生きる」 要約
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① イエス、突風を静める |
「ある日のこと」と言う書き出しで始まり物語は、たまたまある日、次の事が起こった、というルカ特有の書き出しです。この出来事は、それに先行する記事とは、全く無関係に「ある日」起こった事であり、従って、船出の理由も、イエスの疲れを癒すためとか、群衆を避けるためという事を暗示するものは何もありません。イエスは弟子たちに「湖の向こう岸に渡ろう」と言って船出します。しばらく行くうちにイエスは眠ってしまわれました。すると、「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危うくなった」とあります。突然の風と荒波に恐れ驚いた弟子たちは、イエスを起こし「先生、先生、おぼれそうです」と訴えます。この「先生、先生」と相手の名前を二度繰り返して呼ぶ用法は、ルカと使徒言行録に特有のものです。イエスは起き上がって突風をお叱りになりますと、あら不思議!突風は静まって凪になったではありませんか。イエスは弟子たちに言われます「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と。この問いは印象的です。 |
②あなたがたの信仰はどこにあるのか |
イエスは彼らが信仰をもっていたら突風は起こらなかっただろうと言っているのではありません。なぜなら、イエスもまたその舟にいたのですから。また、主は彼らの信仰で自らその突風を静める事が出来たはずだなどと言っているのでもありません。彼らはまだ悪霊を追い出し、癒しを行う力と権威とを与えられていないのですから(9:1-2)。主が問われる「あなたがたの信仰はどこにあるのか」の言葉は、突風の間の彼らの恐れを指摘しているのです。信仰は恐れをなくし、安心を与えます。彼らは恐れてはいますが、それは畏れであって疑いではありません。疑いは信仰に対立するものですから。弟子たちはお互いに言い合います「一体、この方はどなたなのだろう」。これはイエスに対する信頼がいよいよ深まる時の驚きの言葉です。弟子たちは他の群衆よりも長くイエスと共にいたのであり、その間に「一体、この方はどなたなのだろう」という場面にしばしば遭遇し、彼こそは信頼に足る者、という確信が彼らの心の中に形成されていったのでしょう。 |
③ 主の如く生きる |
人生には、晴れの日も雨の日もあります。健康な日も病気の日もあります。成功の日も失敗の日もあります。感激に満ちる事もあれば、悲嘆に暮れる事もあります。私たちキリスト者の人生は、しばしば、海を渡る舟にたとえられます。教会も、昔からよく舟にたとえられてきました。主イエスを信じてこの世を生きることは、波風の立つ海、特に逆風の中を、十字架の御旗のもとに、主の舟に乗り込み、足元が揺らぐ不安を抱きながらも、世の嵐の中に乗り出して行く姿に似ています。この「突風を静める」エピソードは、迫害の突風の最中にあって、困難な戦いを続けていた初代教会の人々に、大きな慰めと励ましを与える出来事でした。巨大な富と権力を誇る大ローマ帝国内の各地に散在する小さな教会の姿は、今、まさに、突風に翻弄されて沈みかかった小舟のようでした。しかしながら、この小舟の中に、十字架に死んで甦り、罪と死の力を滅ぼされた主イエスが共にいます限り、決して滅ぼされることはないという希望と確信をこの奇跡物語は人々に与えたのです。私たちの教会は、主がイニシアティブ(主導権)を握る舟です。主イエスは私たちと共に現臨し、救いの「向こう岸」へと導かれます。主の如く生きてまいりましょう!
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