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聖霊降臨節第2主日礼拝 説教 「涙の出会い」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年6月16日
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ホセア書14章5~8節 ルカによる福音書7章36~50節
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「涙の出会い」 要約
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① 愛の証し |
ユダヤ人、特にファリサイ派の人々や律法学者が主を受け入れない頑なさが語られ、35節で締められ、いよいよ36節に入る時、「重要なのは35節だ」(エリス)!「知恵の正しさは…全ての人によって証明される」。証しは言葉によらず、行為において、愛において主の証しは行われるもの。女の行為は、決して美しい模範的な事でなく、異様である。しかしながら、大切な事は主がそれを“良し”とされた。主イエスが罪ある女を受け入れた。その涙を受け入れた。その業を許された。その故の“愛の証し”と見なして下さった。私たちは、この女のように主イエスの所へ乱入したりしません。性的な罪を犯したわけでもありません。今、礼拝堂に静かに腰かけています。にも拘わらず、主の目から見れば女と同じ事です。私たちの礼拝もそれ自体に特別な意味を持つものではありません。否それどころか私たちは罪人です。が、それを主が受け入れて下さる。主への“愛の証し”と見なされる。だから、私たちのような者でも主に近づくことができるのです。 |
②慰めの共同体・教会 |
主は、シモンに語りかけた後、女に罪の宣言をなさり、最後に派遣の言葉を語られました。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。「安心して行け」と言われて、女はどこへ行くのでしょう。女を救う源となった油の代金をもたらした職、正にその職から女は切り離され、町でのこの女の生活手段は失われました。女が今必要としているのは赦された者の慰めの共同体であり、罪人を赦す教会です。どんな教会でもよいというのではありません。「この教会はあなたを歓迎しますよ」という“慰めの共同体・教会”です。「愛の証し」をする共同体・教会です。そういう教会の必要性をこの物語は叫んでいます。主のシモンへの呼びかけもそういう呼びかけです。自分は罪があっても、せいぜい50デナリオンで、まだましだ。罪のために涙することなど、自分には必要がないと思っている者に「この人を見ないか」と主は言われます。私たち堤伝道所は、主日毎に礼拝を捧げ、御言葉を聞き、御言葉によって養われる慰めの共同体・教会なのです。 |
③ 涙の出会い |
主イエスは譬え話をなさりながらファリサイ人シモンに「この人を見ないか」と言われました。この女は、神の恵みの世界に生きました。ファリサイ人シモンは神を信じると言いながら、この世に生きました。自分の業に生きました。自分が作り出す人生の値打ちを喜びました。が、女は、神の造った世界に生きました。自分の罪の故に、自分を見失っていたけれど、主イエスに出会った今は、神に見出されました。愛を失っていたけれど、今は愛されています。そして神を愛する事を、隣人を愛する事を知りました。ファリサイ人シモンは他の色々なものが気になりますが、女は何も気にならず、ただキリストの罪の赦しだけに心を集中して生きました。教会の原点は、出会いにあります。もっと偉くなる事ではない。もっと大きくなる事ではない。もっと聖くなる事ではない。他人への心づかい、優しい思いやりが、自ずとイエスを愛する行為として現れ、出会いに繋がるのです。出会いは、愛と赦し、どちらが先も、どちらが後もなく起こります。主イエスは、女と涙の出会いをしました。教会はその事を語り続けます。この世を救うのは、このキリストの愛だけです。ここに、主イエスの私たちを愛して下さる深い“愛の姿”があるのです。
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