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復活後第5主日礼拝 説教 「値切られる神」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年5月19日
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創世記18章22~33節 ルカによる福音書7章1~10節
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「値切られる神」 要約
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① 主を呼ぶ |
この教会の庭に藤が咲き、五月が咲き、バラが咲いて、明日は紫陽花が咲き乱れるでしょう。私たちの信仰の先輩が、花をここに運び、集め、時を経て、こうして今、これを愛でています。教会という言葉は、ギリシャ語でエクレーシアといいます。二つの語が重なって出来た言葉です。「…から」という意味の「エク」と「呼ぶ」という意味の「カレオー」です。教会は「人々の中から呼び集められたもの」です。主によって呼びかけられた者の集いが教会であるならば、呼びかけられた一人一人の中に主が住み給わない事がありましょうか。人間のあるべき姿は、顔を上に向けて天を仰ぎみ、主の呼びかけに応答し、自分も主を呼んで、望みながら人生を歩む姿です。「すべて主を呼ぶ者に主は近い」(詩145:18)。この「呼ぶ」はクァラーという字が使われています。「主に近づく」とか「主に出会う」とか「一つになる」という意味です。呼び集められた私たちが主を呼ぶ時、私たちは主の親族となり、隣人となり、そして身内となり、一つとなるのです。 |
② 信仰の物語 |
今朝の新約は百卒長の信仰の物語です。9節の主イエスはこれを聞いて「感心し」とある語は、「驚く」とか「ビックリ仰天し」と訳せます。直訳調で言えば、「百卒長のことに驚いた」のです。主イエスは感心し、驚いて、直ぐに振り向いて群衆に向かって、言います。「言っておくが、これほどの信仰を見たことがない」。神を信じ、神に選ばれている事について確信をもって生きている筈の信仰の民(イスラエル)の中にも、これほどの信仰を遂に見出せずじまいだった。創世記18章のソドムの町の中に、正しい人を一人でも見出そうと神がなさったように、主は、イスラエルの民の中に、この百卒長のような真剣そのものの本物の信仰を見出したかった。だのに、彼らの信仰は、熱くもなく、冷たくもない。何という生ぬるい信仰である事よ。そう嘆いていたのです。イスラエルの中には、残念ながら見出す事の出来なかった本物の信仰。しかし、遂に、異邦人である百卒長の、真剣に「主を呼ぶ声」を聞いたのです。想定外です。大発見です。驚きでした。 |
③ 値切られる神 |
聖書は言います「神は愛です」。今も、人の罪のために神の寛容によって、終末がのばされているというのが聖書の思想です。ソドム、ゴモラは、当時の死海の南岸にあった文化的な都市で、噴火による地震か何かのためにその辺が陥没して、現在は死海の海底に沈んでいます。そのソドム、ゴモラに正しい人が50人いれば、この町が救われるという神の約束を、10人までアブラハムが値切ったわけです。神の愛情に甘えているアブラハムの姿は、とても人間的で興味深いです。固定的・形式的な神概念や摂理観から言えば、「値切られる神」というのはいわば形容矛盾です。が、人類の救済のためにはあえて値切られるというところに聖書の神の特色があると思います。そして、キリストの十字架においては、値切られるばかりか、遂に「身銭を切って」まで、人類を救われることになるわけです。こうした恩寵の神の姿が、この物語において語られています。教会の中でも、かくれた「いと小さき人」の信仰が神によみされて、その教会の祝福となっている場合が多々あります。「その10人のために私は滅ぼさない」という、その10人になれればと願います。私たちの教会の歩みが、この主を呼ぶ叫びによって造られる歩みでありますように!
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