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棕梠の主日(受難節第6主日)礼拝 説教 「絶望を越えて」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年4月14日
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エレミヤ書 32章6~15節 ルカによる福音書 23章44~49節
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「絶望を越えて」 要約
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① 極限状況の中での希望 |
預言者エレミヤは、将来への希望を語る一方でエルサレムの都とユダ王国の滅亡を預言します。当時BC588年、バビロン王ネブカドレツァルはユダの国に攻め込み、エルサレムの町を包囲し、エルサレムが陥落するのは時間の問題でした。そのような中、彼は今一つの主の言葉を聞きます。いとこハナムエルの畑を買うようにと。実際ハナムエルが来て、アナトトの畑を買ってくれるよう頼みます。彼は主の言葉に従って親類の義務をつくし、アナトトの畑を買い、その証書を素焼きの器に入れて永久保存させます。都も国も正に滅びようとしている時、彼が一見無駄な浪費と思える事をしたのは、それが主によって定められた親類の義務と権利である事、そうしない事は神の民として不名誉な事だったから(実際彼には何の益にもならなかった)。が極限状況の中で尚、希望を語るのは、今この状況を越えて、主なる神がその支配を現わして下さると信じたからです。主なる神は、いついかなる時も歴史を導き、神の民の運命を支配なさるという、彼の信仰です。 |
② 主イエスの磔刑と死の意味 |
福音書を読むと、主イエスは自分が「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日の後によみがえるべきこと」を三回に渡って予告しています。「必ず…べき」と言われました。これは、神の必然、神が必ずこのようになさるという事です。イエスは神の必然によって、殺され、神の必然によって甦らされたのです。人の目から見ると、十字架の上で、主イエスは全く神に見捨てられたように見えました。しかし、神は、十字架上の主イエスをも支配なさったので、又このイエスを墓の中から甦らされもしたのです。主イエス磔刑の時、太陽が光を失い、暗くなり、神殿の幕が真ん中から裂けました。つまり、神殿の奥の神と人とを隔てている聖所の幕が切り裂かれてしまったという事です。神のはかりしれない愛と、主イエスの十字架による罪の贖いという大いなる恵みによって、以後、主を信じる者はすべて、神を礼拝し、主を讃美する事が可能になったのです。主イエスの死は、そういう事を意味します。 |
③ 絶望を越えて |
主イエスは最期に、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言って「息を引き取られた」。元の言葉は「息を渡す」です。息を出し切ってしまう。渡してしまう。すっかり出し切ってしまい、あとに息は残らないという事です。この「父よ、わたしの霊を御手にゆだねる」は、詩編31篇5節の言葉です。ユダヤ人が愛した夕べの祈りの言葉です。一日の業を終える午後3時、夕べの祈りの時間、この時エルサレムの町の中から夕べの祈りの時を告げる鐘の音が聞こえてきます。ユダヤの人々は、この鐘を聞くと、「主よ、私の魂をあなたにゆだねる」と祈ります。夕べの祈りは、一日の終わりを意味します。新しい時への備えを意味します。逆境や不遇に陥る時、私たちはあまりにもすばやく神の支配を見失ってはなりません。逆境においても、順境においても、等しく、私たちの主イエス・キリストの神が支配しています。神ご自身が私たちを抜き、壊し、滅ぼし、倒し、また建て、植えて下さるのです。主イエス・キリストを死に渡し、彼を死人の中から甦らされた神が、いつも私たちの方に手を差し伸べ、広げて下さっています。この神を、そして神のご支配を頼みとする事が、私たちの希望となるのです。安心して、信じて生きましょう!
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