印刷用PDF |
待降節(アドヴェント)第4主日クリスマス礼拝
説教 「天に栄光、地に平和」
日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2018年12月23日
|
ルカによる福音書2章8-20節
|
|
「天に栄光、地に平和」 要約
|
緒言 |
メリークリスマス! 今朝は、クリスマスの喜びを共々に深く味わいたいと願って此処に臨みました。今日のクリスマス・メッセージのタイトルは「天に栄光、地に平和」です。これは、ルカによる福音書のイエス・キリストの誕生物語において、14節で羊飼い達に救い主の誕生を告げた天使たちが、神を賛美した箇所に由来します。 そう、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と天の大軍が賛美した所です。この天の大軍こそ、最初にクリスマスを祝う賛美をし、神を礼拝したのでした。今朝、私達が献げるこの礼拝も、2000年の時を越えて同じ延長線上にあって、神を高らかに賛美するものであることを覚えたいと思います。
さて、本日、取り扱う聖書のルカの記事は、冒頭で「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た・・・」とあるように、イエスの誕生を、その歴史的な状況の説明から始めています。でも、ここで聖書は、社会記録を述べるためにではなく、人口調査のような、この世の人間の政治・社会の只中に、つまり、矛盾や誤りがはびこる具体的な人間世界に、神が介入されたことを語っているのです。今日はこの箇所から聖書が何を私達に語っているか、そして、なぜ私達も賛美するべき者なのかを聞き取っていきたいと思います |
時代背景 |
イエス・キリストがお生まれになったのは、アウグストゥスがローマの初代の皇帝についた時期でした。当時、ローマの圧倒的な軍事力を背景として、それまで長く続いてきた戦いや内乱状態に終止符が打たれ、地中海世界の全域に及ぶローマの支配体制が安定して、比較的平和なパックス・ロマーナと呼ばれる時代が訪れていました。それが主イエスのお生まれになった時代背景でした。 |
ローマの平和の陰でイエス・キリスト誕生 |
では、そのローマの平和は、そこに暮らす人々にとって本当に喜ばしいものであったのでしょうか。確かに、戦いが止み、人やモノの行き来は盛んになり、経済的繁栄がもたらされ、人々の暮らしは豊かで安定してはいました。そんな中でローマの全領土に住民登録の命令が出されたのです。人々を拘束し徴税するため、つまり、ローマの支配をより固めるための勅令でした。そのため、人々はそれぞれ自分の先祖の町へ行かなければならず、ヨセフも身重のマリアと共に、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムへと旅をしなければならなかったのです。直線距離でも100km以上もある道のりを、歩いて旅することは、2人にとって、とてもつらいことだったのは想像に難くありません。そして、その旅先のベツレヘムでマリアは月が満ち、初めての子を産んだのです。そこでは、マリアが安心して出産できる場所などはなく、どんなにつらく苦しい惨めなことだったかと思います。皇帝アウグストゥスによってもたらされた地上の力による平和は、その陰でこのような苦しみや悲しみを人々にもたらしていたのです。そんなこの世の悲惨さの只中に、イエス・キリストはお生まれになったのです。
クリスマスの出来事(イエス・キリストの誕生)とは、真の神が、地上に降り、真の人となられたという事実そのものです。大きな大きな神が、小さく小さくなられて、神の子の眩い栄光とは正反対の極端に貧しい姿で。王にふさわしい姿どころか、世間並みというにも程遠く、低く低く生まれたのです。全ての被造物の支配者が、この世の隅の隅で生まれたのです。世界から注目されつつ、世の全体を照らすような仕方ではなく、謙遜に静かにこの世の端っこに生まれ、一隅を照らした。それが、イエス・キリストの誕生であり、そこから、この世全体への神の救いの業が始まったのです。
地上に生きる私達が、もっともっと、上へ上へ、というのとはまったく逆に、天から地へ、小さく低く下へ下へと降られた神。人間の価値観・生き方とは真逆の方向へ向かう、ドンデン返しのような有様で生まれた救い主キリスト。それが、イエス・キリストの誕生でした。 |
羊飼い達の境遇 |
イエス・キリストの誕生を最初に知らされたのは羊飼い達でした。羊飼い達に天使が現れて、救い主の誕生が告げられたのでした。この羊飼いとはどういう人達だったのでしょうか。どんな扱いを受けていたのでしょうか?。それは、8節の場面を見るとよくわかります。羊飼いたちはこの時、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしています。人々は皆、ローマ皇帝の命令で、住民登録をするために、故郷に帰っていたのです。
それなのに、この羊飼い達は今、羊の番をしているわけです。 つまり、彼らは住民登録をする必要もない輩だと見なされ、人々からさげすまれていました。そんな羊飼い達に、クリスマスのメッセージが最初に伝えられたのです。 |
本当の平和 |
この羊飼い達が置かれている現実はとても厳しいものでした、でも、彼らは本当の意味で平和でした。本当の平和とは、戦争がないというようなことではなく、神の恵み、祝福が満ち溢れている状態のことだからです。人間同士の疑心暗鬼がある中での力の均衡による平和などは、本当の平和とは言えません。たとえ戦争がなくても、憎しみがあり、争いがあり、分裂があり、相手への疑いがあるなら、また弱い者、貧しい者が苦しむ現実があるなら、それは平和ではありません。そこにあるのは、闇の支配、悲しみと絶望の支配です。それに対して本当の平和とは、その本質に愛があり、赦しがあり、一致があり、信頼があることです。闇の中にいる者が光に照らされ、悲しむ者に喜びが与えられ、絶望ではなく希望に生きることができる、それが本当の平和です。14節での「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美にある「平和」とは、そのような平和なのです。
この天使の賛美は、天における神の栄光と、地における人間の本当の平和とは、その関係において不可分であることを語っています。つまり、地の平和は私達人間の努力によって打ち立てられるものではなくて、天の神の栄光によってこそ実現するということなのです。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いがあるところに信頼をもたらし、闇を光で照らし、悲しみを喜びに変え、絶望から希望への転換をもたらすのは、私達の力ではありません。神の栄光であり、その神の力であり、働きであるのです。神の栄光が現されること、つまり神が神であられることが明らかになり、崇められ礼拝される所でこそ、その神の栄光が現れるのです。そして、それこそが地に平和をもたらすのです。私達が自分の力で愛や赦しや一致や信頼を築き、平和を実現しようとしても、そんな試みは必ず挫折し、より深い絶望をもたらします。なぜなら、私達人間には罪があるからです。人間は生来、自分が主人となって、自分の思いによって生きようとする存在です。それが私達の罪です。神を第一にせず、自分中心に生きる私達は、他の人々を大切にすることができず、良い関係を築けずに逆に破壊してしまうのです。神に対しても隣人に対しても、愛するよりも憎み敵対する思いを持ってしまう。それが私たちの罪の現実です。その罪が、新約以前は私達を支配していたのです。人間の思いや努力ではどうしようもなかったのです。
主イエス・キリストがこの地上にお生まれになったのは、そのような罪の支配下にある私達に、神の栄光を現し、その栄光の力によって救いを与え、私達に本当の平和をもたらして下さるためでした。まさに、天の栄光と地の平和とを結びつける方として、イエス・キリストはお生まれになったのです。
|
羊飼いと平和の器 |
羊飼い達は、この平和の知らせであるクリスマスの出来事を、聴覚的・聴覚的というよりも、ただただ霊的に良き知らせとして、信仰的に神から聞き取ったのだと思います。そして、彼らが霊的に受け取ったものとは、この世の恐れが小さくなってしまうような大きな本当の畏れです。それは、自分流の願望が圧倒されるような喜び、つまり、人間の考えていることや持っているものとは、中身も本質も違う本当の畏れです。真の喜びを下支えする真の畏れでした。真に畏れるべきものを畏れる畏れ。羊飼い達はそれを受け取ったのでした。
その大きな畏れとは、人の罪を白日の下にさらし、十字架につけ、それを拭い去るものです。そして、人に確信を与え、人を強くし、本来的な意味において謙遜にするものです。この真に畏れるべきことを畏れるという恵みを私達一人々々に与えるために、キリストがこの世に降ってくださったのです。このことの傍観者である限り、人はその場しのぎの喜びしかつかめません。人はどうして見物人や評論家であって良いでしょうか?
さぁ、大きな畏れ、巨大な喜び、あるいは、巨大な「?」マークでもあるイエス・キリストの誕生というクリスマスに込められた神の栄光を、最初に聞き取った羊飼いのごとく、素直に受け取って、今、私達と共にいてくださる主と、今ここからはじめましょう。
そうです。クリスマスは、真の神を畏れることの始まりです。そして、ここが恵みの出発点なのです。 |
祈り |
御在天の父なる神様! 天の栄光とそれに直結した地の平和。それは私達の努力によって成し遂げられることではありません。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストが、私達を愛してこの世を歩み、そして十字架にかかって自らの命を与えて死んで下さり、それによって復活と永遠の命を生きる者となられました。私達は、その主イエスに従って生きていくことによって、神の真の栄光の力をいただき、地に真の平和をもたらすための器として用いていただくことができるのです。主よ、どうぞ、天の栄光を信じる私達が、地において平和の器として生きることができますように。そのことを実現するために、主イエス・キリストはお生まれになりました。どうか私達が、クリスマスを天使の賛美に声を合わせ、まさに今ここで、そして、これからも「天に栄光、地に平和」と歌うことができますように。
尊き主イエス・キリストの御名を通して御前に祈ります。アーメン
|
|