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アドベント第4主日礼拝 説教要約
日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
2024年12月22日
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聖書 ルカによる福音書 第2章1~20節
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1 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。
2 これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。
3 人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。
4 ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムという
ダビデの町へ上って行った。
5 身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。
6 ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、
7 初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。
9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。
11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。
これがあなたがたへのしるしである。」
13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。
14「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」
15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。
16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。
18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。
19 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。
20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、
神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
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説教 「恐れと喜び」 要約
細井 宏一 伝道師 |
今の世の現実を見ると・・・
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今日は、教会員全員が何らかの役柄を務めるページェント礼拝。マリア、ヨセフ、博士、ヘロデ、羊飼い、天使などなど。皆さん、登場人物になりきって演じた感想はいかがでしたか?
このページェント礼拝、特にクリスマス・ページェントは、イエス・キリストの誕生を祝うための劇であり、イエスの降誕の物語を視覚的に再現することで、信者一人一人が役割を演じて、その場面で生じていることの意味を深く理解できる礼拝形式です。
そして、このことをよく考えてみると、私達の日常も、私達はみんな、牧師・伝道師、サラリーマン、教師、パパ・ママ、おじいちゃん・おばあちゃん、学生・・・、などなどとして、それぞれの人生の役割を担って過ごしていることに気づきます。
皆さんのその現実の役柄から見た今年は、どんな年でしたか・・・?
振り返ってみると、今年は正月早々には、能登半島地震。羽田空港でのJALと海上保安庁の飛行機のあり得ないような衝突事故。また、2月には、経済大国であったはずの日本の名目GDPがドイツに抜かれて、世界第4位に転落したというショッキングなニュース。さらに、3月には、政治と金の問題が取りざたされ、国会が機能不全に陥るという、ということがありました。
私達の国・日本は、政治も経済も国家の安全ももうガタガタ。周囲を見れば、目を覆いたくなるような日本の国力の衰退、産業や科学技術の競争力低下などなど。不安なことだらけです。
凋落の一途をたどって、このままいけば間違いなく没落してしまうこの国・日本。
皆さんは、そんな現実の世の中で、自分の役割をどのように生きてきましたか?
実は2000年前に、主イエスが生まれたユダヤ人の社会も、社会全体を不安と恐れが覆っていました。しかも、それは、今の日本の社会とは、比べものにならないほど、ひどく混乱したものでした。
ローマに支配され、その支援を受けた凶悪なヘロデ王が、ユダヤ人でありながらユダヤ人から搾取をする二重支配の政治的状況。経済的にも、貧富の大きな格差が存在して、当時のユダヤの社会は、人々が、貧と富に完全に二極分化していました。
さらに、宗教的にみても、ユダヤ教で結束してまとまっているかと思いきや、実は、パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派などの教派が存在してバラバラ。それぞれが異なる教義や生活様式を頑なに守り、他の教派と対立していました。
つまり、当時のユダヤ社会は、私達人間が頼りとする政治・経済・文化・宗教、それらのどれもこれもが、まともではなく、どうしようもない状態に陥っていました。
主イエスが来られたクリスマスの出来事とは、まさに、そんな混迷を極めるユダヤ社会のど真ん中に、神の子が到来したというものでした。
ここで、本日の聖書箇所のルカ2:9を見てみたいのですが、「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」とあります。そんな不安な社会の中で、羊飼いたちが非常に恐れたというこの恐れとは、何だったのでしょうか。
ユダヤ社会の最下層に位置していた羊飼いたちの生活は、おしなべて貧しく不安定で、一般の人々からは蔑まれていましたから、当然、彼らは暮らしへの恐れや不安を抱えていたといえます。
でも天使は、彼らのそのような社会的な恐れに対して、10節にあるように「恐れるな」と言ったのではありませんでした。そうではなくて、彼らは天使が現れ、主の栄光に照らされたことによって、それまで生活の中で感じていたのとは違う恐れを覚えたのです。つまり、それは、神のみ前に立つことによる恐れ、神の栄光に照らされることによる恐れです。
神の偉大さ、清さ、栄光の前で、自分が弱くてちっぽけで、罪にまみれた者でしかない、ということを知らされることよって気づかされる恐れと言ってもよいでしょう。
9節で羊飼いたちが恐れたと訳されているのは、ἐφοβήθησαν
(ephobēthēsan)というギリシア語単語で、大丈夫だろうかと思った(afraid)という意味の単語で、恐怖というよりも、むしろ不安です。主の栄光という完全無欠な聖さに照らされた時に、自分という罪なる存在がそんなところにいて、いいんだろうか?という不安です。
羊飼いたちが感じたのは、神の前で、人間の力や知恵がいかにちっぽけな、弱いものであるか、さらに人間がいかに罪深いものであるのか、どうしよう、大丈夫じゃない!という不安です。
現代の私達はどうでしょうか?
神の栄光に、照らされているとか、神の前に立つ、とかいうことからくるそうした恐れを持っているでしょうか? そういう本当に恐れるべき方を恐れるという恐れを失ったことによって、自分本位・人間至上という思い上がりに陥り、その結果、人間社会も地球環境などなどといった全ての世の事象から、今このようなしっぺ返しを受けているのではないでしょうか。今、私たちに欠けていること、本当に必要なことは、神の前でのこの恐れ、神を恐れる思いを持つこと、つまり、神の前に出て立ち、この羊飼いたちが覚えたのと同じ恐れを、私たちも抱かなければならないのです。
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本当に恐れるべき方を恐れる
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でも、神の前での恐れを抱くというのは、神のことを、何をするか分からない得体の知れない力だとして怖がることではありません。羊飼いたちは、恐ろしい怪物に出会って恐れたのではないのです。神の栄光に照らされたのです。人間を超えた、神の偉大な力、清さ、正義、真実に触れたことによって恐れたのです。そして、その本来的な恐れるべき恐れを抱くことで初めて、9節にあるように、そこには神からの「恐れるな」というみ声が響くのです。
そして、神の偉大な力、清さ、正義、真実の前に立つとき、私たちが自分の小ささ、弱さ、罪深さを示されて恐れを覚える、その時にこそ神は私たちに「恐れるな」と語りかけて下さり、神の偉大な力、清さ、正義、真実で、私たちを滅ぼそうとするのではなくて、罪と汚れに満ちている私たちを、憐れみをもって救って下さる、ということを神は「恐れるな」という言葉で示して下さっているのです。そのために、神は独り子イエス・キリストを、この世に送って下さいました。
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クリスマスの喜び
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だから、私達のクリスマスとは、イエス・キリストが私たちのところに来て下さったということをこそ喜び祝うものなのです。神を畏れ、そして、この世に来て下さった神の独り子イエス・キリストを心の中にお迎えすることによって、私たち一人一人の心にも、神からの「恐れるな」という、恵みに満ちたクリスマスのメッセ-ジが届くのです。10節にあるように「民全体に大きな喜びを告げる」と、神の言葉が響くのです。この恵みに満ちたみ声を聞いて、神のみ前に膝まづいて礼拝する者となることによってこそ私たちは、人間の思い上がりを悔い改めて、神のみ前に自分の弱さ、罪深さを認めて謙遜になり、本当に恐れるべき方である神を恐れて生きていくことができるようにされるのです。そして、本当に恐れるべき方である神を恐れることを知った者は、この世界に渦巻く不安にびくともせずに、神をこそ恐れて生き、世のアレやコレやについては、
絶対に大丈夫という確信を持って、喜びに生きる者とされるのです。それが、神が、本日の聖書箇所を通して、私達に語って下さる「恐れと喜び」ということです。
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主イエス・キリストはこの世のド真ん中に降られた
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ここで、1つ注意しておきたいおことがあります。私達は、主イエスを、世俗的なことから引き離して、信じ・崇めようとしていないでしょうか。教会で、清らかに讃美歌が流れて、厳かな空気に包まれると、私達は心が潔められて良かったーと感激するものです。
実際のところ、私もそうですが、私達の堤伝道所においても、ここに来てよかったー、とか、堤のこの雰囲気が好きーとか思っている側面があります。でも、それは注意すべき点なのです。もちろん、それは悪いことではなく良いことですが、でも、それだけでは、本当に主イエスを讃えていることにはならないからです。
なぜなら、主イエスは、混とんとした世の中の社会の底辺に生まれ、この世の中にずっぽりと身を浸して生きた方でした。そして、私達が「讃美歌21-280」で、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし、この人を見よ と歌うように、主イエスはドロドロとしたこの世の現実のど真ん中に、やってこられたからです。
教会は、政治や社会の問題にはかかわらず、厳かで崇高であるべきものだ!というような信仰姿勢や教会への考え方を持つ信徒の方々がいますが、それは間違っています。主イエスの歩まれた足跡を見てみてください。主イエスは気高いところに来たのではなく、この世のドロドロでボロボロのところに来て下さったのです。
もちろん、現実の世の中・社会のことばかりに一生懸命になって、御言葉や教会を忘れてしまうのは本末転倒でナンセンスです。でも、主イエスは矛盾に満ちたこの世に来られたのです。
泣く者と共に泣き、飢えた者と共に飢えに堪え、暴力を振るう者にさいなまれた主イエスのそうした姿にこそ、主イエスの愛の姿があり。神の子が人として、この世に生まれて下さったことの本当の意味があるのです。そんな出来事が主イエスの誕生というクリスマスの出来事。クリスマスとは、まことの神によるこの世への突入の出来事なのです。感謝してこのことを受け取りましょう。
祈り
キリスト教は主イエス・キリストの出来事が根源です。そして、この世における神のそうした出来事の最たるものがクリスマス。イエスが権謀術策がドロドロと渦巻くこの世に生まれて下さったのです。
「貧しきうれい 生くるなやみ つぶさになめしこの人を見よ」(讃美歌21-280番)との歌詞のごとく、私達人間の具体的な生活の中に、入って来て下さったのです。主よ、感謝です。
そして、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。とルカ2:6-7にあるように、
神の子の誕生を記すのに、聖書は後光がさしたとか、天が開かれたとかいうような修飾は少しもありません。
普通の子どもが生まれるのと全く同じでした。この何たる神のヘリくだりであるのか。
だからこそ、私達は神に感謝して、まことの「恐れ」をもって、神の前に立って生き、本当の喜びに生きる自分自身のクリスチャン人生を演じて歩むことが出来る者として下さいますように。
2024年のこのクリリスマス。メリークリスマス。アーメン。
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