主日礼拝 説教抄録  2024年度
    
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       復活節第3主日礼拝  説教要約

                 日本基督教団 茅ケ崎堤伝道所
                     
  2024年4月14日


     聖書    マタイによる福音書 第5章1~3節


       1  イエスはこの群衆を見て、山に登られた。
         腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。

       2  そこで、イエスは口を開き、教えられた。

       3  「心の貧しい人々は、幸いである、
         天の国はその人たちのものである。 






       説教「神様でいっぱいに」 要約



① 「山上の説教」の始まり
 「山上の説教」の始まりのところでは「このような人たちは幸いだ」という八つの祝福が」語られます。その第一が「心の貧しい人々」です。「イエスはこの群衆を見て」(1節)と書かれています。すぐ前を読みますと、「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人」(4:24)がイエス様のもとにやってきていたことがわかります。イエス様を追いかけて来た人たちの多くは、辛い思いをしていた人たちです。「この群衆を見て」、イエス様は「山に登られ」ました(1節)。「山に登る」とは、イエス様が祈る時、神様のもとで静まる時になさることです。多くの辛い思いをしている人を見て、イエス様は山に登られます。そして、「腰を下ろされ、口を開き、教えられました」(1~2節)。「腰を下ろ」し「口を開く」というように、わざわざもったいぶって書かれているのは、これから述べられる教えが重要なものだということを言いたいからです。そうして語られたのが、「心の貧しい人々は幸いである」に始まる教えなのです。    
② 心の貧しい人々は、幸いである
 イエス様のお話を聞こうと集まってきたのは、貧しい人たちでした。「お金持ちになってお腹いっぱいご飯を食べられたら、幸せだな」と思っていました。ところがイエス様は「貧しい人は幸せです」と言ったのです。え一、どうして一、貧しい人が幸せなの…? 不思議に思いました。イエス様がおっしゃった「心の貧しい人々」は謙虚な人とか、心の弱い人というような意味ではありません。誇れるものなど何も持っていない人のことです。イエス様について来た人たちは、まさにこのような人たちでした。富も健康も社会的な地位も、何も持っていない。知恵や優れた人格もない。「心の貧しい人々」は、神様の前に自分は小さく低いことを知っている人々です。その人たちは「幸い」だとイエス様はおっしゃいます。白旗をあげて、自分にではなく、神様に頼るからです。天の国はその人たちのもの」なのです(3節)。「天の国」は「神の国」と同じです。「天」は死んだら行く所やどこか空の高い所ではありません。神様がいらっしゃる所、即ち、神様のご意志がなされている所です。
③ 神様でいっぱいに   
 イエス様の言葉を聴いた人たちは、きっとビックリしたことでしょう。「貧しい人々」が幸せだなんて、聞いたことがありません。貧しいのは苦しいこと、嫌なことです。金銭的なことであっても、心のことであっても嫌です。特に、イエス様を追ってきた人たちは、貧しさの中で辛い思いをしている人たちです。その人たちはどう思ったことでしょう。では、何でも持っていれば幸せでしょうか。そうとは言えません。持っていたら、もっと欲しくなるのが私たちです。それでは、どこまで行っても幸せにはなれません。「幸い」なのは、神様が一緒でないと満たされないと知ることです。「自分の貧しさを知っているあなたたちは、神様に頼るだろう。あなたたちは神様の国の住人だ」とイエス様はおっしゃいました。貧しく辛い思いをしていた人たちは、「幸せ」を宣言されてうれしかったでしょうね。イエス様を追いかけて来た群衆だけが「貧しい人」ではありません。私たちは皆、神様の助けがなければ生きていけない「貧しい人」です。「神様、私は頼れるものを何も持っていません、あなたのほかには」と神様のところへ行くこと。その人を、神様は喜んで「神の国」の住人として下さいます。空っぽであることを恐れず、神様に自分を差し出すことを伝えましょう!

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 更新 : 2024. 4. 13  by mn

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