主日礼拝 説教抄録  2022年度
    
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      復活節第7主日礼拝  説教「父と呼べる幸せ」

                日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                        2022年5月29日

  ガラテヤの信徒への手紙 第4章6節

「父と呼べる幸せ」 要約
① ナイヤガラの滝を渡る綱渡り師
 カナダとアメリカの間にナイヤガラの滝があります。ドイツから来た綱渡り師が鋼鉄のロープを張って、その上を歩いてみせました。見物人はハラハラしながら見守りますが、彼は途中でジャンプまでして戻ってきました。「皆さんいかがでしたか?」拍手喝采が起こります。「ではこれから人をおんぶして渡りたいと思います。できると思いますか?」みんな喜んで拍手をしました。「では、あなた どうぞ!」。途端に彼の周りの人の波が引きました。だって落ちるかもしれません。怖くて乗る人などいません。「どなたか、いませんか?」。呼びかけに応えたのは一人の男の子でした。綱渡り師は軽々と男の子をおんぶし、さっきと同じように悠々と網を渡って戻ってきました。「坊や怖くなかったの?」大人たちが聞くと「ぜんぜん。なぜだと思う?」と男の子。大人たちは誰もわかりません。すると男の子、ニッコリ笑って言いました「だって、あの人、僕のお父さん」。心から信頼するお父さんが一緒にいてくれたら誰だって安心、怖くありませんよね。
② イエス様に出会う前の私たちと、出会ってからの私たち
 今朝の御言葉を4章1~7節の文脈で読み進めます。結論は「あなたはもはや奴隷ではなく、子です」(7)。そのため、子と奴隷の違いが論じられます。「子」とはイエス様と出会ってからの私たち。「奴隷」とはイエス様に出会う前の私たちだと言えます。イエス様に出会う前の私たちは「世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(3)。現代でも多くの人が占いに頼り、日や方角などのこだわりも根強く残っています。それらに惑わされていた私たちを解放するために神は御子を遣わされました。御子は「女から…生まれた者」(4)です。それはこの方が私たちと同じ人間になられた事を意味します。罪以外のすべての弱さや痛みもご存じだという事です。御子が遣わされたのは「わたしたちを神の子となさるため」(5)です。奴隷の対極にあるのが子ども。奴隷にとって主人は監督者です。ルール(律法)を守らなければ罰せられます。が、親と子は主従関係ではありません。親は子を訓練しますが、その存在を丸ごと受け入れる無条件の愛が存在します。
③ 父と呼べる幸せ
 親のその愛に対して、応答として子に求められるのは、失敗しない事ではなく、信頼する事、その絶対の信頼をひと言で表したのが「アッバ、父よ」です。それにしてもなぜ叫ぶのでしょう。これはゲッセマネでのイエス様の祈りなのです。御子が遣わされたのは、「律法の支配下にある者を贖い出すため」です。「贖う」とは代価を払って買い戻す事。イエス様はご自分の命を代価として支払って下さいました。この主の受難があって初めて私たちも「神」を「アッバ」と呼べることを忘れてはなりません。そして聖霊が、二千年前に完成して下さったこの事実を、今日の私の事実として下さるのです。綱渡り師の男の子が安心してお父さんの背中に乗ったように、私たちも安心して天のお父様に頼ることができます。私たちが今日あった事、嬉しい事、悲しい事、どんな事も聞きたい、頼ってほしいと神様は思っています。父親に話すように神様にお話しする事、それがお祈りです。親と子の絶対的な信頼、それが神様と私たちの関係です。イエス様の十字架がそれを実現して下さり、聖霊がその交わりに私たちを入れて下さいます。聖霊が天の父と私たちを直接つないで下さるのです。だから、安心して「父」と呼べます。「父と呼べる幸せ」です。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2022.5.28 by km.mn

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