主日礼拝 説教抄録  2021年度
    
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   聖霊降臨節第17主日礼拝  説教「暗闇を照らす ともし火」

                日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                       2021年9月12日

 マルコによる福音書 第4章21節~23節

「暗闇を照らす ともし火」 要約
① 「ともし火」のたとえ
 イエス様の言う「ともし火」とは油が入った器、布を裂いて紐状に縒った芯の一方を浸し、他方の先端に火をつけるもので、ランプの一種です。電気の照明の明るさを知っている私たちには暗く感じるかもしれませんが、昔はこのともし火が、夜には最も頼りになる明かりだったのです。それを燭台の上に置くことで部屋は一層明るくなります。その火を消す時に用いたのが升です。ともし火は吹き消すと部屋中に煙が立ちこめます。それで、大きめの升でランプごと覆って火を消したのです。ですから、ともし火を升の下に置くというのは、せっかくともした灯りを消してしまうということです。また明かりを消さないにしても、寝台の下に置けば部屋は暗いままで、火をともした意味がありません。イエス様は、「闇を照らす明かりはその光が行き渡る燭台の上に置くものでしょう」と言っておられるのです。興味深いのは「ともし火を持って来る」(21節)が原語では「ともし火が来る」と、まるで火が一人で歩いて来るような表現になっている点です。
「ともし火が来る」って?
 マルコ1章を原語で見ると、「来る」という言葉で言い表しているのは、イエス様です。洗礼者ヨハネが「私よりも優れた方が後から来られる」(7節)、「イエスはガリラヤのナザレから来て」(9節)、「イエスはガリラヤへ行き」(14節)、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」(24節)、「ガリラヤ中の会堂に行き」(39節)も、すべてその主語はイエス様です。つまり、「ともし火」とは、イエス様ご自身のことなのです。聖書には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光をもつ」(ヨハネ8:12)。「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)というイエス様の言葉があります。私たちはイエス様の光を受けて、はじめて光り輝くことができるのです。イエス様は、光となって闇の中を生きる私たちを支えて下さいます。その光をいっぱいに受けることが、私たちにとって何より大切なことだと思います。
③ 暗闇を照らす ともし火
 昔々イギリスのスコットランドの海岸に小さい漁師の家がありました。その海側の窓の所で女の子が心配そうに海側の方を見ています。「今日は風が強くて海が荒れている。お父さんの船、大丈夫かな」。夜になっても昔だから電気もない。その日はみんな心配して家でお祈りしながら待ったのね。でも帰って来ない。翌日の朝、村の人たちも心配して探してくれました。すると、遠くの方の岩がいっぱいある所で壊れた船のかけらや帆柱と一緒に、お父さんの亡骸が見つかったの。夜の嵐の暗闇の中で、家のある方角と違う岩だらけの所へ行って、岩にぶつかって死んじゃったの。悲しくて、二度とこんなことが起こらないように考えて、女の子はそれから毎日、夕方暗くなると、海側の窓にランプを置くようにしたの。それでスコットランドの海岸には「暗闇を照らす ともし火があるから大丈夫!」と漁師も遠くから来た船も間違わないで命が助かるようになったのだって。十年、二十年、三十年たっても女の子は毎日、自分の持っている小さなランプに火をつけて置いたそうよ。それが後に海岸に「灯台」を建てる元になったという話です。イエス様は、「みんなは、自分の持っている光を人々の前に輝かしなさい」って、おっしゃっておられます。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2021.9.11 by nk

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