主日礼拝 説教抄録  2021年度
    
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      復活節第6主日礼拝 説教「イエス様と一緒に」

                日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                       2021年5月9日

 マタイによる福音書 第4章18節~22節

「イエス様と一緒に」 要約
① 人間をとる漁師
 漁師というのを知っているでしょう。色々の方法で魚をとる人ですね。イエス様の最初の弟子になったのはガリラヤ湖の漁師でした。ガリラヤ湖は、パレスチナ北部にあり、南北20キロ、東西は最大の所で12キロ、霞ケ浦ぐらいです。この湖は淡水で漁業資源が豊富にあり、漁師たちは、とった魚を塩漬けにして、エルサレムやローマへ輸出して生計を立てていました。ペトロと兄弟アンデレもそこで魚をとっていました。イエス様が通りかかりお呼びになりました。「私の弟子になりなさい。そうすれば人間をとる漁師にしてあげる」。人間をとる漁師というのは、たとえ話で、網を投げかけて人間を捕まえるわけではなく、イエス様の教えを人に伝えて、人がイエス様を信じる事ができるように沢山の人をイエス様の所に連れてくる人、という事なのです。そう呼ばれて、ペトロとアンデレはすぐに舟も網もそこに置いたままイエス様について来ました。漁師ヤコブと兄弟ヨハネを呼びますと、彼らも舟と父親とを残してイエス様について来ました。
ついて来なさい(19節)
 「ついて来なさい」という言葉は、弟子になって従う者、属する者になるという事を意味しています。つまり、単について行くというのではなく、全人的に従う事であり、イエス様に身を任せるという事です。イエス様の言葉に従う事は、漁師たちが、<魚をとる漁師>という日常から、<人間をとる漁師>という非日常の存在になるという事です。常識的な社会の枠組みから外れ、アウトサイダーになるのです。これは弟子たちの「悔い改め」です。「悔い改め」は、反省や謝罪とは異なります。罪の赦しという神様の救いを得て生きる事を表しています。これは弟子たちの生の全体的な方向転換です。網を捨てる、更に舟と父親を残して(22)という事は、一切を捨ててイエス様に従うという事を表しており、既存の社会的な人間関係、生活を手放すという事でもあります。社会という制約の中のかかわりで生きてきた者たちが、社会の外を生きるようになるのです。それはこの世的な拠り所の放棄であり、ひたすらイエス様により頼み、従う事を示します。
③ イエス様と一緒に
 イエス様は弟子たちを招かれる時、テストをしませんでした。「仕事ができるから弟子にします」とは言いませんでした。「私の役に立ちそうだから、私について来なさい」とも言いませんでした。ただ、「わたしについて来なさい」と言われました。そんなイエス様と出会ったのがうれしくて、ペトロもアンデレも、ヤコブもヨハネも、イエス様に従って行ったのだと思います。何も持たずにすぐにイエス様について行く事を決めました。断れなくて嫌々ついて行ったのではありません。イエス様と出会って、「自分たちもイエス様と一緒にいたい」「イエス様と一緒に、喜びをみんなに伝えたい」と思ったのだと思います。それで漁師をやめてイエス様についていきました。仕事をやめるという事はとても大変な事です。けれども、それ以上にイエス様と一緒にいて、とても嬉しかったのだと思います。誰も、嫌々ながら洗礼を受けた人はいないと思います。私たちは喜びをもって洗礼を受けたはずです。私たちはみんなイエス様が大好きな人同士です。「あら、あなたもイエス様が好きなの?」「私も好きなのよ」って、イエス様の事が大好きになって、イエス様と一緒にいる事がうれしくて、イエス様が色々の人を助けたお話を沢山の人々に伝えたいですね。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2021.5.8 by nk

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