主日礼拝 説教抄録  2021年度
    
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      復活後第3主日礼拝 説教「洗礼の恵みによって」

                日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
                       2021年4月18日

 マタイによる福音書 第3章13節~17節

「洗礼の恵みによって」 要約
① ガリラヤ湖のようになれ!
 マタイによる福音書3章13節に「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた」という言葉があります。このガリラヤ湖の水は、ヨルダン川を通して、南の死海へ流れています。死海は世界一低い海のために水がたまるばかりで、岩塩がとけて塩の海となっています。聖書には「受けるより与えるほうが幸いである」という言葉があります。人間にたとえれば、「ガリラヤ湖」という人は、「死海」という“他人”に神からの恵みを与えています。一方、「死海」という人は、「ガリラヤ湖」という“神”or“他人”から与えられるだけなので、塩分26%となり、魚は生きられなくて死んでしまうため、「死海」と呼ばれています。ところで、あなたはもらうだけでなく、他人に与えるガリラヤ湖のタイプか、それとも、ためこんで出さない死海のタイプでしょうか。奉仕をするという事はガリラヤ湖のタイプの人です。ガリラヤ湖の水を飲んだヨルダン蛇(蛇の新種)は小便がたまって塩分が濃すぎる「死の水たまり」の人です。
I was born
 「なぜ、私は母の胎にいるうちに 死んでしまわなかったのか。せめて生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか」(ヨブ3:11,12)。吉野弘著『吉野弘詩集』(思湖社)の中で、彼は次のように詠っています。「自我に目覚めた少年の想いは飛躍しやすい。その時僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。―やっぱりI was bornなのだね― 父は怪訝そうに僕の頭をのぞきこんだ。僕は繰り返した。― I was bornさ。受身形だよ。正しく言うと、人間は生まれさせられるのだ。自分の意志ではないのだね」と。この詩は、自我にめざめた少年の、その命が自分の意志を越えて、他に強いられて存在している事と、同時に、その他者の限りなく強い意志や配慮、時には命すらが、自分の誕生と成長のかげにあって費やされてきたことへの新しい発見と感動を物語っています。先の聖句はヨブが自らの誕生と命を呪う独白です。
③ 洗礼の恵みによって
 今朝は、洗礼者ヨハネの活動の場面です。罪に苦しむ多くの人々が、ヨルダン川で活動する洗礼者ヨハネのもとに向かって行きました。その洗礼を受ける人々の中に、ガリラヤのナザレから来たイエス様もいたのです。洗礼を受けるために、ヨルダン川にやって来たみんなは、ヨハネの話を聞いて、自分が神様に背を向けていたことに気づいて「神様、ごめんなさい」という気持ちで洗礼を受けました。ヨルダン川の水に体を浸して、体の汚れを洗い流すように罪を洗い流しました。そこにイエス様も来られたので、ヨハネはびっくりしました。ヨハネは、イエス様が神様の思いに従って生きる正しい方だと知っていたので、イエス様は洗礼を受ける必要がないと思っていたからです。でもイエス様は他の人と同じようにヨルダン川の水に入り、ヨハネから洗礼をお受けになりました。イエス様は、私たちと同じ人間として生きて下さいました。イエス様の系図の後に、このイエス様の洗礼の出来事がありました。洗礼の恵みは、これまでの古い自分から、新しい自分へと生まれ変わらせてくれるものです。イエス様は今、私たちと共に生きて下さっています。私たちも、イエス様の物語に耳を傾けながら、イエス様と出会っていきたいと思います。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2021.4.17 by nk

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