主日礼拝 説教抄録  2021年度
    
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   復活日(イースター)礼拝 説教「赦された者として生きる」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2021年4月4日

 ヨハネによる福音書 第20章1~18節

「赦された者として生きる」 要約
① 死から命が始まる
 十字架で処刑された人は、何日も十字架にかけられたまま、苦しみ抜いて死にます。しかし、イエスはその日のうちに十字架から下されました。ユダヤ人たちが処刑されたまま放置するのは、律法(申命記21章)に反すると考え、十字架から下すように願い出たのです。十字架から下す時は、足を折って絶命させました。が、イエスは既に息を引き取っておられたので、足を折られる事はありませんでした。「過越の犠牲の羊の骨を折ってはならない」(出エジプト記12章46節)という聖書の言葉が実現したのです。イエスは、過越の小羊として死なれました。足を折られなかったというのは、そのしるしです。神の民が神の子を刺し貫いた。とんでもない罪を犯しました。が、この死は死では終わりません。神が死者の中から引き起こす復活の出来事が起こったのです。復活のイエスから溢れ出る命を受ける私たちにとって、死も命も新しい意味を帯びています。復活のイエスに従って、新しい命を生き者となるのです。私たちは、そう呼びかけられているのです。
イエスの復活
 イエスの弟子たちはイエスが十字架に架けられた時、恐くて逃げ出しました。イエスは一人で十字架に架けられたのです。当時、十字架に架けられた人は、お葬式をしてもらえませんでした。共同の死体置き場に投げ捨てられるのが普通でした。でも、イエスの事がずっと気になっていたアリマタヤのヨセフとニコデモがやって来て、イエスの遺体を引き取ってお墓に納めました。日曜日の朝早く、まだ暗いうちにマグダラのマリアは墓に行って驚きました。お墓をふさいでいた石が取りのけてあり、イエスのお体がありません。そこでマリアはペトロとヨハネの所へ走って行って、彼らに告げました。二人は一緒に走って墓に行きましたが、ヨハネが先に着いて、身をかがめて中をのぞくと「亜麻布が置いてあった」(5)。彼は中には入らなかった。続いて着いたペトロが墓に入り「亜麻布が置いてあるのを見た」(6)。イエスの頭を包んでいた覆いは亜麻布と同じ所にはなく離れた所に丸めてあった。それからヨハネも入って来て「見て、信じた」(8)。イエスの復活は神の愛の命が死の力に勝利した姿です。その愛と命を与えられて生きる者となりたい。
③ 赦された者として生きる 
 マグダラのマリアはこの「命」に出会い、その「命」を証した最初の人です。彼女はかつて主イエスによって「七つの悪霊を追い出していただいた」女性です(ルカ8:2、マルコ16:9)。悪霊とは、神と交わり、自分を受け入れ、隣人と共に生きるという、三重の関わりを破壊する力です。それが七つもあったマリアは、神を信じる事ができず、自分を受け入れる事もできず、他人を恐れて疑心暗鬼の毎日を過ごしていました。そんな彼女の全てを受け入れ、自分を愛する事を教えて下さったのがイエスです。その主が十字架で殺された。今や空虚な墓の前で、彼女は、泣いていた。主の遺体すら見当たらない。「後ろ」に主がおられるにもかかわらず、悲嘆にくれる彼女は「園丁」と誤解し、「あなたが運んだのでしたら、教えて下さい」と言います。主はこの時、「マリア」と呼びます。ああ、その声は主の声です。マリアもいつもの呼びかけで応えました、「ラボニ」と。復活とは、復活の主の呼びかけに応える所に始まります。復活の主との「呼びつ応えつ」の交わりに生きることです。復活とは頭で理解する事ではありません。赦された者として生きる事です。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2021.4.3 by nk

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