主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    永眠者記念・聖徒の日礼拝 説教「主よ、どこへ」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年11月1日

 ヨハネによる福音書13章36~38節

「主よ、どこへ」 要約
① 生と死
 死ぬ気になれば、何とかなるはずだし、死ぬ気になって取り組めば、活路を見出し、道なき所にも道が開かれ、望みなき所においても、望みを持つ事ができます。闇の中にも光が差し込んでいるのが解って、絶望を乗り越えて、希望に生きる事ができるようになるのです。このように、生と死とは隣り合わせの関係にあります。ガンの宣告を受け、自分の命が限りあるものである事を知らされ、死を受け入れる中で、命の尊さに気づかされ、命を輝かせて一日一日を大切に生きて、正により良く死んでいく中でより良く生きる事ができました。また、ある人は死に直面して、それまでの利己的な自分の人生を深く後悔し、反省させられ、愛に生きる事の大切さに気づき、残された月日を他者のために生きて、心満たされて終わりを迎え、初めて、より良く生きる事ができました。「私たちは、キリストと共に死んだならキリストと共に生きる事になる」(ローマ6:8)。死は新しい命、“永遠の命”に変わっていく単なる<通過点>に過ぎないという事への思いです。
永遠の命への希望
 永遠の命とは、永遠の世界での命、つまり完成した命という意味です。私たちはこの地上の命を終えたら、丁度ドアを開けて、隣の部屋に入っていくように、主イエスに導かれて新しい世界に進みます。地上では罪と病を負い、さまざまな不完全さを抱えている私たちです。仲たがいをしたままの人もいます。赦せない人もいますし、赦してもらえない人もいます。しかし、その新しい場所において、キリストの父なる神は、私たちを完成させて下さいます。そして、先に召されて既に完成された者たちと、その所で、完成されたお互いとして再会できるのです。 今朝のテキストは三節だけの本当に短い箇所です。ペトロと主イエスの問答がなされています。《あなたは今ついて来ることはできない》と言われたペトロは、イエスの行き先は死であると察して《あなたのためなら命を捨てます》と大胆な決意を表明します。これに対して、イエスはペトロの離反を予告します。ペトロはイエスのために死のうとした事は嘘ではありません。
③ 主よ、どこへ  
 人間の力に頼ったペトロのヒロイックな陶酔に対して、人間の無力さが暴露されるのです。が、この人間の無力ささえも、最終的には愛の対象、愛の現れの場として用いられることになります。シェンケヴィッチ著『クォ・ヴァディス』にこう記されています。ペトロはやがて伝道者になり、パウロと共にローマで働きます。皇帝ネロが狂気を発し、ローマに火を放って、その火災を楽しむと共に放火犯はキリスト者だと言い「ネロの迫害」をします。迫害の中でペトロは疑いを持ち、主が教えて下さった信仰の道は迫害に対して無力ではないか。深い疲れを覚えた時、生き残っていた教会の仲間たちがペトロを案じて、都を逃れて、地方のために働いて頂きたいと言い、彼はそれを受け入れ、都を出ます。その街道の途中、甦りの主に出会います。ペトロは問います。「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこに行かれるのですか)」。主は「あなたが捨てて逃れようとしているローマの都に行く。十字架に再びつけられるために」と。驚いてペトロは引き返して、殉教の死をとげます。この物語は、主に従うという事は主のために死ぬという事を示しています。私たちも「主の弟子として生き、また死ぬ」と答えて、主の栄誉に生き抜く事ができますように!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.10.31 by nk

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