主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    降誕前第9主日礼拝 説教「愛のお手本」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年10月25日

 ヨハネによる福音書13章12~20節

「愛のお手本」 要約
① 洗足・着衣・着座・教えの開始(12節)
 洗足に先立って、イエスは「上着を脱ぎ」(4節)とありました。上着を脱ぐという行為は、象徴的には「十字架に命を捨てる」事を意味していて、12節の「上着を着る」という行為は命をもう一度得る事、即ち「復活」を現わしています。従って「足を洗う」行為は、十字架の血で私たちの罪の汚れを洗い清めて赦すという贖罪を象徴しています。主イエスに足を洗って頂かなければ、私たちは主イエスと何の関係もなくなります。信仰によって罪を赦された私たちではありますが、信仰生活の中で様々な罪を犯して、足を汚す者です。その都度、主は私たちの足下にひざまずいて、私たちの足を洗って下さるのです。もし足を洗って頂く事を拒否するなら、私たちは自ら主との関係を捨て去ることになります。日毎に私たちの足を洗って下さるお方に、罪を告白して、日毎に足を洗って頂きましょう!同様に、私たちは日毎に兄弟姉妹の罪を許すのです。それが互いの足を洗い合う事です。日毎に主に足を洗って頂き、日毎に兄弟姉妹の足を洗い合いましょう!
「先生 / 主」と 弟子の関係
 洗足をなさった後に、主イエスは弟子たちに言われました。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか」。どうぞ分かってもらいたい。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ」。それは結構。主イエスは、「あなたがたは、わたしの弟子だ」と言われて、弟子たちに対し、自分が弟子であるという事を再認識させると同時に、「弟子」とはどのような者であるかを思い起こさせます。弟子(マセーテース)は、「先生 / 主」の真似をする事によって学ぶ(マンサノー)者の事です。イエスの弟子は、イエスに倣うからこそ、イエスの弟子なのです。イエスが師であり、先生であるなら、その弟子であるあなた方はイエスの真似をするべき存在なのだと教えます。この事は、師に対する「弟子」としての私たちも学ぶべき事であります。私たちがなぜいるのか。主に足を洗って頂いたからです。それ以外に理由はありません。私たちの心の罪を、存在そのものが持っている罪を、主の十字架の死が拭い去って下さったからです。
③ 愛のお手本  
 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示した」(15節)ここに「模範」という言葉があります。私はまだ小学校に通う前に「書道」を教えてもらった時の事を思い出します。お手本を前において、そのお手本を真似て書く。中々うまく書けない。先生が「トン、スー、トン」と言って下さる。私も言いながら書いてみる。分かったようで分からない。何度も書く。しまいに先生が私の後ろに来て、私の手の上からかぶさるように筆を持って書く。こちらが力を入れようとすると「ダメダメ、先生が書くのに手を添えていればいい」。そのように実行していると感触が分かってくる。力の入れ方、抜き方、筆の納め方、入り方、真っすぐ線を引く要領。そして<真似る>事を覚えました。主イエスは、弟子たちの足を、愛を持って包んで洗って下さり、愛とはどんなしぐさをするのかという事を、ただお言葉だけではなくて、体のしぐさをもって教えて下さり、体をもって味わわせて下さいます。私たちが教会に来て、皆と一緒に礼拝を捧げる時、主イエスの救いの御手を感じ、主の愛を知ります。主の究極の愛は十字架ですが、今朝は洗足という愛のお手本を頂きました。私たちも互いに愛を実行致しましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.10.24 by nk

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