主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第18主日礼拝 説教「人生の分水嶺」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年9月27日

 ヨハネによる福音書11章45~57節

「人生の分水嶺」 要約
① キリストにある生
 人間の世界では、死ぬことは、もはやお別れです。しかし、主イエスは死んで墓に埋葬されているラザロに声をかけました。ラザロはその呼びかけに反応して墓から出て来ました。それは、死ぬことで主イエスとの関係が切れたのではないという事を示します。人間の側で、「もう四日も経っていますから…」「臭いますから…」と結論を出してはなりません。主イエスはどのような状況に生きていようとも、その状況の中に声をかけます。これに反応することを「キリストにある」と言います。いつも礼拝に出ているから、常にお祈りしているから、だからこうあるべきだというのは、マルタやマリアの発想です。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」との発想は人間の発想です。主イエス・キリストは、あなたの現実に声をかけて下さいます。あなたは今、苦しい状況でしょうか。悲しい状況でしょうか。その状況の中に、主が声をかけて下さいます。そうです。もう大丈夫!神様は、あなたを愛しています。
イエスを殺す計画
 ラザロの復活の出来事のあと、多くの人たちが、イエスを信じました。その一方でこの出来事が、祭司長、長老、律法学者たちがイエスを殺す計画を進めるきっかけにもなったのです。大祭司カイアファが「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方」が良いと言ってローマ兵の弾圧を防ぐ手段としてイエスを犠牲にしようとする様子が描かれています。それは、ラザロに起こった最大の奇跡が、イエスの死を決定づける事になったという事です。そう考えると、「ラザロ復活」の物語が、単に主が死んだ人をよみがえらせるという奇跡を起こされたというだけではない、もっと重要な事を私たちに伝えようとしているのだと分かります。ラザロの復活は私たちを神の愛の中に取り戻すために十字架で死んで下さった、あの出来事の「先取り」であり、象徴である「しるし」ならば、ラザロがたとえこの先、死を迎えたとしても、もう二度と神から引き離される事を恐れなくてよいのです。私たちも安心してよいのです。
③ 人生の分水嶺  
 ヨハネ福音書は21章から成り、11章はその中央の章です。ちょうど一つの山を登る事にたとえれば、人生の道半ばにして頂上に達し、そこから向こう側に目的地を目ざして登り始めるのです。共観福音書は主が逮捕され、最高法廷に引き出され、総督ピラトが死刑の判決を下します。ヨハネ福音書は、死刑の判決はもうこの時下っており、分水嶺のように、その判決の中に踏み込むように主イエスの歩みが始まっていくと理解しています。頂に立って向こう側に降りていこうとします。明るく光り輝く頂から、死の闇が支配している谷に主イエスが降って行こうとなさるわけです。こうしてラザロの復活の出来事が遠ざかったのではなくて、むしろラザロの出来事が、ラザロが味わった命が、私たちのものとなるのです。このラザロを自分の家に迎えることができたマリアが、私たちをそのように生かして下さる<過越の子羊>である主イエスの足下に、ひざまずいて、香油を注いで、髪の毛でその足を拭いました。このマリアの心が、私たち一人一人の<命に生きる道>に、キリストが食い込んでいて下さる事を覚えましょう!私たちはキリストの十字架の意味を絶えず問い続け、神に信仰を問われている事を大切にして生きて参りましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.9.26 by nk

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