主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第16主日礼拝 説教「死んでも生きる」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年9月13日

 ヨハネによる福音書11章17~27節

「死んでも生きる」 要約
① ラザロは死んで墓に葬られた
 主イエスがマルタとマリアの姉妹のもとを訪れたのは、彼女らの兄弟ラザロが死んで葬られてから四日後の事でした。マルタは、イエスがもっと早くおいでにならなかった事が不満でした。「主よ、もしあなたがここにいて下さったなら、私の兄弟は死ななかったでしょう」とその心のうちを漏らしています。けれども他方、「あなたがどんなことをお願いになっても、神はかなえて下さることを私は今でも存じています」という主イエスへの信頼も表明しています。このマルタに対してイエスは、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」と告げたのです。マルタはイエスのこの言葉を十分に理解することができません。彼女はそれが終わりの日の甦りの事を指していると受け取ります。しかし、これはただマルタ個人の問題というよりも、マルタが生きていたこの時代のすべての人の確信と言いますか、希望でありました。いずれにしても、イエスはそのように答えたマルタに、更にたたみかけるように言われます。「私はよみがえりであり、命である」と。
ラザロのよみがえり
 主イエスはマルタと会話をかわした後、ラザロの墓に行き、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわりました。するとラザロは葬られたままの姿で墓の中から出て来たとあります。ラザロが息を引き取った時、イエスがそこに居合わせなかった事について、マルタもマリアも同じ言葉で、「主よ、もしあなたがここにいて下さったら私の兄弟は死ななかったでしょう」と愚痴っています(21,32節)。マルタとマリアは、一方で過去への執着に、他方で未来を待つ焦燥へと二つに引き裂かれてしまって、今という時を失っています。このような問いにイエスは、「わたしだ。わたしがここにいるではないか。わたしが命であり、よみがえりである」と語りかけるのです。そしてラザロを墓の中から呼び出して、姉妹たちの手に返されたのです。皆様方もイエスが蘇って、今も生きておられ、今日ここでこの所で、「わたしだ、わたしがここにいるではないか。わたしがよみがえりであり、命である」という告知を今、聞き取ったのです。
③ 死んでも生きる  
 皆様方は一人一人、それぞれ出来る事なら書き変え、作り変えたいという過去をお持ちの事と思います。あの時もし健康であれば、もし自分を支えてくれる後ろ盾があれば、こうはならなかっただろう、もっと良い状況になっていたはずだ。あの時ああしておけば良かった、こうしておけば良かったとこぼし、愚痴る材料を誰でも持っています。が、その時というものは過ぎ去ってしまって、時計の針を逆転させる事はできません。そうかと思うと今度は逆に未来にばかり目を向けて、もしああなれば自分はこうするのに、そういう形で未来に自分を託して今は何もしない、そういう生き方もあります。マルタもマリアも兄弟ラザロの死というものに直面して、思いが過去の思い出と未来への期待とに引き裂かれてしまって、現在の時を失っているのではないでしょうか。彼女らの涙は今の時が失われている徴です。そういうものに向かってイエスは「わたしだ。わたしがいるではないか。わたしが蘇りであり、命である。あなたはこれを信じるか」と呼びかけて下さいます。わたしの言葉を守って、今を生きよと招いて下さる。イエスの招きに応えて、私たちはもはや死ぬことのない命、たとえ死んでも生きるという命に与からせて頂きましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.9.12 by nk

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