主日礼拝 説教抄録  2020年度
    
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    聖霊降臨節第11主日礼拝 説教「絶望を越えて」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年8月9日

 ヨハネによる福音書9章1~12節

「絶望を越えて」 要約
① 因果応報観からの追放
 ヨハネ福音書9章には、主イエスが「生まれつきの盲人の目を開かれたという奇跡物語と、それに続く長い対話」が記されています。5章の「ベトザタの池のほとりでの病人の癒し、続く長い説話」とよく似た構成です。9章は、生まれつきの盲人である事、癒された人の信仰は前提とされず、イエスの業が先行している事が特徴です。イエスが道を通っておられる時、生まれつきの盲人に目を留めます。弟子たちは「この人が生まれつきの盲人なのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか、両親ですか」と問います。イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」と理由探しそれ自体を拒否します。そして全く違った視点からの答えを出されます。それはただ「神の業がこの人に現れるためである」。イエスは、当時のユダヤ教の社会通念・信仰理解を拒否するのみならず、生まれつき盲人である事に宗教的・社会的意味付けを行う事を拒否し、因果応報観からの追放を宣言すると共に、新しい解釈・世界を創造されました。
「神の業がこの人に現れるため」(3節)
 主イエスにとって大切な事は、この盲人の身に生まれつき負わされた苦しみの原因と罪を詮索する事ではなく、この盲人の開かない目に“光と希望を与える事”、過去という冷酷な運命の堅い扉を開いて、そこに“神の≪みわざ≫を現わす事”でした。「神の業がこの人に現れるため」の「この人に」という原語は、エン アウトィと書かれています。「エン」はある事が行われる対象を表わします。“盲人”においてではなく、この人、“彼”に対して神の業が現れるという意味です。主イエスは生まれつきの盲人という運命の重い絶望的な扉の前に立ちどまらず、あえてこの鉄の扉に向かって突進し、その苦しみを自分の身に担う事によって、生まれつきの盲人の目を癒されたのです。しかし、イエスを介してこの男に現れた神の業は、期待されるような手放しで喜ぶような事柄ではありません。むしろ彼は癒された事によって厳しい状況へと追いやられていくのです。近所の人々や両親は、決して彼を好意的に迎えてはくれませんでした。
③ 絶望を越えて 
 目を癒された男には予想に反して厳しい現実でした。家族中が喜びに沸き返ったのでもなければ、すぐさま社会復帰を遂げたのでもありません。逆に、ユダヤ教からの破門、帰属する社会からの追放という実に冷酷な現実を、彼は迎えなければなりませんでした。彼の目が見えるようになったいきさつを証言する事が村八分の恐れがあると分かると、彼の両親は知らぬ存ぜぬを通します。極限状況です。絶望的です。にも拘らず、彼は絶望を越えて、イエスを主であると信仰告白するのです。これは一つの不思議な奇跡物語です。翻ってイエスの前に立つ生まれつきの盲人、それは私たち自身の姿ではないでしょうか。私たちの中にある闇の力が、私たちをとりこにし、見るべきものを見えなくしています。が、主イエスは親の罪の報いや前世の因縁ではなく、私たち一人一人の上に神のみわざが現れる事を見られます。盲目である事の原因ではなく、その意味と目的が示されます。私たちが生きる意味は、神のみわざが現れるためである。このような信仰と思想によって私たちは初めて、宿命論の堅い鎖を突破する事が出来、生きる希望の光を受ける事ができるのです。世の光なる主が共にいて下さいます。信じて、ご一緒してまいりましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.8.8 by nk

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