主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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受難節第4主日礼拝 説教 「一粒の麦が死ぬとき」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2020年3月22日

   ヨハネによる福音書12章20~29節


「一粒の麦が死ぬとき」 要約
① 人の子が栄光を受ける時が来た(23節)
 イエスは異邦人の問いに「人の子が栄光を受ける時が来た」と答えました。「人の子」はキリストの事、「栄光を受ける」は、挙げられる意です。何処に挙げられるか?天にいる神のもとであり、十字架の上です。つまり、「十字架に挙げられるイエス・キリスト」は、正にその時そのままの姿で「キリストの栄光の姿」というわけです。復活とか昇天とかいう出来事の前に、それらを飛び越えて、「十字架」の出来事それ自体が「キリストの栄光の姿」であると告げているのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」というのは、地に蒔かれた麦の種が芽吹き育っていく時、一麦の種は、もとの麦の種としての形を失います。その意味で、一麦の種が自らの姿を失って死に、それによって新しい数多くの麦の種を実らせる事により、多くの命を生み、新しい時代を切り開いていくものとなる、と主は言われたのです。「死ぬ」事は失われる事。何かが「失われる」事によって、何かが「生まれる」というのです。
② 「一粒の麦」として生きた人
 ナチスの時代のユダヤ人大虐殺、所謂「ホロコースト」は、ただユダヤ人であるというだけで600万人が処分されたと言われます。この時ヘンリク・ゴールドシュミット(通称コルチャック)は「一粒の麦」として生きました。彼は1,500人のユダヤ人を自分の工場に引き取り、匿い、救助しました。彼はポーランド系ユダヤ人で、教育家であり、医者であり、作家でした。彼の顕著な働きは困難な中にある子供のための働きです。35歳の時、それまで勤めていた病院を辞めて、「ドム・シュロット孤児院」を開き、30年間、子供たちと共に生き、「子どもの家」建設のため全力投球しました。1942年8月初め、彼は最後まで彼が面倒を見、守り続けた子供192名と、職員10人と共にトレブリンカ収容所へ送られました。間違いなく死に至る旅立ちを前にして、彼の助命を求める運動があり、ナチスも恩赦を認めましたが、断わり、ガス室へ送られ、死にました。もし彼が自分の安全だけを考えていたとしたら、自らの命を失うことはなかったでしょう。
③ 一粒の麦が死ぬとき
 コルチャックの生涯を貫くものは、私たちの主であるイエス・キリストのご生涯を貫いていたのと同じ生き方だったのです。キリストは結局、十字架に挙げられました。キリストもまた、その死に至るまで、弟子たちと共に、彼に救いを求める人々と共に歩きました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。この言葉は真実な言葉です。が、この言葉は、誰にとっても自明の言葉であるというわけではありません。そこには、キリストの栄光を約束する神の声が天上から響きわたるのを聞きつつ、「あれは雷にすぎない」と言って聞き流す人々と、「いや、あれは天の声だ」と聞き分けた人間がいるのです。同じ経験、同じ出来事に出会いながら、私たちはそれぞれ異なる理解をし、異なる生き方に進んでいくことがあります。けれども、私たちの生涯において最も大切なことは、私たちが自分の手の平に何を握りしめたまま一生を終えるかということではなく、その手の平を何のために開き、私たちの手を誰に向かって差し伸べるかという事です。主イエス・キリストの十字架の前に立つ時、私たちはこのような課題を問われています。レントの日々、この事を真摯に思い巡らす者でありましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2020.3.22 nk


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