主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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待降節(アドベント)第1主日礼拝 説教 「富からの自由」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年12月1日

  創世記13章2~18節 ルカによる福音書16章1~13節


「富からの自由」 要約
① ルカ福音書15章と16章の譬え(たとえ)
 15章と16章の譬えの違いの特徴は、15章は譬え話がそのまま譬え話として語られています。16章は、8節の「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」で終わらず、更に言葉が重なり、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」「神と富とに仕えることはできない」の言葉が続きます。16章の譬え話は理解し難い為、口伝していくうち、別の言葉が付加されたのではないかと推察されます。問題は、主はなぜこういう物語をされたかです。聖書の章節の区分は最初からあったのでなく、実は15章と16章の間に区別はなく続けて読まれました。15章初めを読みますと、イエスが徴税人、罪人と食事をしているのを非難して、ファリサイ派の人々や律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」とつぶやいています。それを聞いていた弟子たちは、自分たちには関係ない話だと思い呑気に構えていたかも知れません。今礼拝している私たちと同じように。
② 主イエスは、この管理人の何をほめたのか
 ビックリ仰天!主の矛先が弟子たちに向き、この男のように生きよと手本を示されたからです。管理人は主人の財産を無駄遣いした上、反省しないどころか、追い払われる迄の僅かな時を自分の将来のため、精一杯狡猾に使い尽くしました。こんな彼を主はほめました。彼の何を?「利口なやり方」賢いやり方です。賢さとは、<自分は生きる意味がある>という確信であり覚悟です。弟子たちは主の弟子になりました。問われれば「死んでも主の後をついて行く」と言いながら死を恐れ、主の後について行けなかった。こういう覚悟の足りない所で、人は愚かになります。管理人は中途半端に反省して「真人間になるから勘弁して下さい」とは言っていません。それだけに途方に暮れました。「どうしよう」と切羽詰まった。その時「そうだ!分かった!」と喜びを発見しました。それは、悪く言えば他人を利用する事、良く言えば、他人をあてにしても良い事。人は一人で生きているわけではない。他の人と一緒に生きているという事に気がついたのです。
③ 富からの自由
 9節「不正にまみれた富で友達を作りなさい」と主は言われました。人は、世の中で様々な人と共に生きています。私たちは神の愛の光の中に生きています。この世はこの世で終わるのではなくて、必ず、主が再び来られ、この世の始末をつけて下さいます。そう信じる時、私たちは、よく知るようになります。人は、一人では生きていないという事を。皆いつも一緒に生きているのだという事を。私は富から自由になって僅かな富でも、他者と共に生きることができるように用いたいと思っています。聖書に「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」(エフェソ4:28)とあります。私は神が与えて下さった恵みの宝を生かし抜く思いを、喜んで分かち合えよう、生きて参りたいと思っています。神は私たちの避け所、真実な救いの岩です。神に対する真実な思いをもって、神が与えて下さった富を生かし、神の栄光をあらわすために、共に生きる人々の重荷を少しでも軽くするために用いて行けたら素晴らしいと思います。ささげる喜びを、分ける喜びを、地上の富を喜んで受け、その豊かさに生きる喜びを与えられ続け生かされますように。

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.12.1 nk


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