主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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降誕前第5主日収穫感謝日・謝恩日礼拝 説教 「優等生の罪」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年11月24日

  ルカによる福音書15章11~32節


「優等生の罪」 要約
① 第三のたとえ(ルカ15:11~32)
 このたとえは、一般に放蕩息子と呼ばれる弟の話とその兄の話の二つの部分に分けられます。このような二重のたとえにおいては、通常あとの方に強調点があります。17節から放蕩息子の帰還、彼の悔い改めが記されています。オランダの画家レンブラントは一生の間、何度もこの絵を描きました。描けば描くほど放蕩息子を迎える父を描く事に力が入ったそうです。この父は、(神orイエス)を象徴しています。が、今朝は父や次男坊でなく、兄の姿に焦点を合わせて学びます。29節、兄は言います「私は何年も父に仕えています。言いつけに背いた事は一度もありません」。25節、「兄は畑にいたが家の近くに来ると、音楽や踊りの音が聞こえてきた」とあります。「音楽」の原語ギリシャ語「シンフォニア(交響曲)」は、「シン(共に)」+「フォニア、フォニー(音、響き)」の意味で、百人で演奏しても、二百人で歌っても一つの響きになります。神の愛の響きに心合わせる事に優等生も劣等生もないのです。既に天国の調べが演奏され始めているからです。
② <愛のなさ>と<怒り>が罪を生む
 祝宴の最中、畑から帰って来た兄は、放蕩の挙句、無一物で帰って来た弟を懲らしめもせず迎え入れ、責任を取らせもせず祝宴を設けている父の甘さに我慢ならず<怒って>家に入りません。28節、「父が出て来てなだめた」。父は、愛の神、キリストの父です。29節の「仕える」とは「奴隷として働く」事です。兄は父の家(教会)での生活を奴隷的屈辱のように感じていました。が、異郷にあった弟は、父の家で雇い人として働く事をも最上の賜物だと知りました。兄は自分の苦労と父の軽視を語った後、「あなたのあの息子が、娼婦達と一緒にあなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛をほふっておやりになる」(30節)と言って、父の不公平をなじります。「あなたのあの息子」は、自分の弟ではありませんか。“骨肉の争いは、他人同士より厳しい”。確かに弟は、父の財産を損じたのですが、兄に損害を与えたわけではなく、兄は弟の罪を口実として、自分の<愛のなさ>を正当化しています。こういう所に、義人の偽善や罪が生じるのです。
③ 優等生の罪
 怒れる兄に父は、暖かい愛と赦しのまなざしを向けて、「子よ」と語りかけます。放蕩の弟に対して、父は常に愛と赦しの父であったように、嫉妬する兄に対しても、愛と赦しの父でした。「あなたは常に私と一緒にいる。私の物は全部あなたの物だよ」(31節)と、全てを赦し、愛を宣言されました。「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しい事だろう」(詩133:1)。「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前の事」。この父の言葉は、何ものにもまさって、共にある事を喜びとされる神の恵み、主の愛を告げています。そして私たちも、「神第一」に生き、また兄弟を愛して共に生きる事を喜びとするよう促しています。この物語は父の言葉で終わり、兄の答えは記されていません。主イエスが、当時の優等生であるファリサイ派の人々や律法学者たちにこのたとえを話されたのは、優等生の兄に託して彼自身が答えるように決断を促しています。更にこのたとえは、私たちにも決断を迫っています。人の目から見えるどんな優等生も、劣等生と言われる者も、神の目には、どの人も、大切な、かけがえのない、尊い一人です。神に立ち返って、喜びを発見しましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.11.24 nk


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