主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
印刷用PDF

聖霊降臨節第20主日礼拝 説教 「誰を待っているのか」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年10月20日

 エゼキエル書12章21~28節 ルカによる福音書12章35~48節

「誰を待っているのか」 要約
① エゼキエルの「言葉」と「行為」 
 祭司エゼキエルは、ユダの国がバビロンに攻められて、多くの人々が捕われの身になった時、エゼキエル自身もバビロンに連れて行かれました。「バビロン捕囚」です。彼が捕囚となって五年目のことです。エゼキエルは主なる神から召命を受けて、預言者となります。順風満帆の時ではなく、捕囚の時に、「神が、天地を造られた」と見抜いていくのは、至難の業です。人々が「エルサレムは陥落しない」と信じたり、バビロンから逃れてエジプトへ行ったりしていたその時に、神はエゼキエルに捕囚の荷を整えさせ、昼のうちに、彼らの見ている前で家移りをさせます。人々がそれを見て、「これはどういうことだろう」と考えるであろうと、身をもって、示されたのです。このまま残るのか、殺されるのか、逃げるのか、とどまる方がよいのか分からないその時に、預言者エゼキエルは、「神の語られた言葉は、必ず成就する」と言い、世の終わりに備えて準備させ、人々に、救われる望みを持たせて、来たりたもう主を待ち望みつつ生きることを示したのです。
② 忠実で賢い管理人(ルカ12:42)
 『ルカ福音書』にある「管理人」とは、主人の全財産の管理をまかされている僕のことです。そのような意味で私たちは、それぞれ神から命を与えられて、自分の生涯の管理人とされているのです。ここで先ず、管理人に求められている事は、主人に対する「忠実さ」です。あなたの主人、つまり神が抱いておられる思いが何であるのかを、あなたは知らなければなりません。『主の祈り』にある「み心がなりますように」という祈りは、この事を表わしています。次に、求められている「賢さ」は、自分に委ねられている人々や資産を賢く公正に取り扱う事です。自分の下にいる下男や女中、食べ物、時間を正しく取り扱いなさい。主人が見ていないだろうと、殴ったり、浪費するならば、主人が帰って来た時、明らかになります。「忠実で賢い管理人」である事は真の主人である方を仰ぎ、この世において正しく生きる事です。「祈る事と人々の間で正義を行う事こそ、将来のキリスト者のしるしである」と、かつてボンヘッファーが獄中で書いたように。
③ 誰を待っているのか
 今朝のテキストには、終末におけるキリスト者の生き方が示されています。宇宙万物は、神によって創られました。わけても人間は、神の作品として神に似せて創られました。しかし、操り人形としてではなく、自由な存在、責任ある存在として創られました。人は自分の寿命を延ばす事はできません。空の鳥は予算案を組まないし、屋根の上で雀が国会を開いたりしません。雀も鳥も健康保険なしで生きています。私たちキリスト者は約束された未来の救いを望みながら自覚的に生きる存在です。それが終末を信じるキリスト者の根本的な姿勢です。誰を待っているのかと言えば、終末(キリストの再臨、神の国の到来)を待っているのです。パウロは「この世に生きる人は主観的な幻想や願望に生き、空しい夢を見ている。が、キリスト者はこの世的な情熱や世俗的な欲望に酔いしれるのでなく、常に目覚めている。神が私たち一人一人に与えて下さった現実を、たとえどんなに厳しい現実であっても、それを自分の責任において引き受け、自分の肩に担い、神の意志に服従して生きる存在である」と言っています。私たちは神から与えられた人生を神の御心に相応しく準備と見張りをもって前向き、肯定的、建設的に生きてまいりましょう!

〒253-0006 神奈川県茅ケ崎市堤19-6
TEL/FAX 0467-54-1300
日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.10.20 nk


Copyright 2010 Chigasaki Tutumi Dendosho  All Rights Reserved