主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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聖霊降臨節第17主日礼拝 説教 「何を祈り求めるか」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年9月29日

 イザヤ書55章1~7節 ルカによる福音書11章1~13節

「何を祈り求めるか」 要約
① 祈りとは 
 人間の最も人間らしい行為(神への応答)です。私たちは、命の深い核の部分で何らかの形で、神と結びついています。命の深い核の部分は、しばしば日々の日常的な事柄や、楽しみや、おしゃべりの中に埋もれてしまい、私たちは真実な自己に気づくこともなく、何となく生きています。しかし人は、その人生の中で行き詰まり、疲れ、辛い出来事に遭遇し、くずおれそうになる時、突然、深い核の部分が開き、自らの根源がさらけ出され、ごく自然に祈りへと導かれます。そして神に祈ると、見えない神の霊が働いて、安心が得られ、人を本当の自立へと目覚めさせます。祈りとは、人を支え、励まし、立ち直らせる力です。聖書は、「神が“光あれ”というと光が生まれ、神は見て“良し”とされた」と記しています。神によって人類は、また私たち一人ひとりも、神に向き合うようにと創られました。神の声に耳を傾け、応答することは、最も人間らしい行為です。自分のためだけでなく他者のために祈る時、私たちは最も人間らしい私たちとなるのです。
② 祈りの教科書、祈りのカテキズム
 祈りたい。できることなら祈れるようになりたい。ただ、どのように祈ったらよいかわからない。それを教えてほしい。誰よりも、主イエスから教えて頂きたい。私たちの共通の願いです。それを弟子たちが口にしてくれました。「祈ることを教えて下さい」。そこで主は、「主の祈り」を教えて下さいました。5~8節は祈りについての譬えです。内容は、夜になって旅行中の友人が突然泊りにきた。提供すべきパンもない。やむを得ず親しいと思う別の友人の所へ行ってパンを分けてくれと頼み、ようやく願いが叶えられたという話です。「パンを与えてくれる友人」は神です。「しきりに願う」、すぐには起きてくれない友人の扉を困らせてしまう程、叩き続けて願い求める祈りの心を、主は求めておられます。この祈りの教科書、祈りのカテキズムの、最後の言葉はこうです。「まして天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」。驚くべき、注目すべき言葉です。13節前半に「良い物」とあります。天の父がいつも与えて下さる贈り物、それは、み霊である、と。
③ 何を祈り求めるか
 ドイツの牧師ブルームハルトの『夕べの祈り』の中に、こういう言葉が出てきます。「我らに必要な安息を与えて下さい。あなたが生きて、本当に我らの傍らにおられるということを経験させて下さい」。まさに聖霊を求める祈りです。私たち(私)の心は大層鈍いものです。真実の祈りの心を直ぐに忘れます。ブルームハルトは、幼子のように、すべての祈りが凝縮するように祈ります。それを知りたい。それが分かったら、今しばらく、貧乏に苦しまなければならなくても、今ここで、病と闘わなくてはならなくても、この闘いに耐えることができる。父と呼ぶ神が生きて、すぐそばにいて下さるということさえ確信できればよいのです。神はおられないのではないかという不安が、信仰の心に代わって自分の心の中に忍び込むならば、どんなにお金があっても、どんなに平和に生きているようであっても、根底から覆ってしまうことになる。「神よ、あなたは本当に生きておられる。どうぞそれを分からせて下さい。神よ!」。聖霊を求めるということは、こういうことです。主は約束して下さいます「祈り求めるがよい。神は必ず教えて下さる。ご自分が生きておられる事を」。この大きな素晴らしい約束の中に、心を一つにして立ち続けましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.9.29 nk


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