主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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聖霊降臨節第16主日礼拝 説教 「マルタとマリヤ」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年9月22日

 申命記33章1~3節 ルカによる福音書10章38~42節

「マルタとマリヤ」 要約
① 「マルタよ、マルタよ」 
 この物語は私たちが家族と共に、夫や妻と共に、真実の思いやりをもって生きるとはどういう事かを考えさせてくれます。旅の途中「ある村」での事。ルカは、村の名には興味がない。彼が書きたいのはイエスが旅人としてのもてなしを受けた事です。勿論、弟子たちも、世話をする女たちも一緒です。当時の旅は想像を越える困難なものでした。それだけに旅人をもてなす事は大変でした。マルタは、イエス一行を自分の家に迎え入れ、彼らの飢え、疲れ、汚れを心配し、思いやって、懸命に働いた。見ると、マリヤは、彼らの疲れも、飢えも知らず、イエスの痛みを自分の痛みとすることもしないで、イエスに話をさせ、話を聞き続けている。マルタは自分がしている事は良い事だと思っているので、妹のマリヤを裁く言葉をイエスに言います。それに対して主は「マルタよ、マルタよ」と呼びかけます。名を繰り返して呼ぶのは愛の徴です。主イエスは愛と慈しみをもって彼女の心配と思い煩いを指摘し、なくてならぬものを失った姿を示しました。
② イエスの「足もとに座る」マリヤ
 申命記33:3のモーセの最後の言葉「足もとに座る」は、人々が神の言葉を聞き入る時の姿勢です。マリヤはイエスを、神・救い主として受け入れました。自分の罪と弱さの中で罪のゆるしの言葉、慰めの言葉を聞き取ったのです。イエスの旅(生涯)はエルサレムに続く旅であり、ゴルゴタ、十字架への道である事を知りました。故に、主の言葉一つ一つが赦しと慰めの言葉でした。神から与えられる御馳走の如く、ひたすら聞き入りました。全身全霊をもって聞く。マリヤには、これしかなかった。主に御馳走する余裕はない。これこそがイエスに本当に出会った人の姿です。42節「無くてならぬものは唯一つ、マリヤはそれを選んだ」(口語訳)と主は言われました。これを彼女から取り去ってはならない事、あなたが、今ここで、妹に働け、と言い、私がそれに同意する事は、マリヤにとって、かけがえのないものを奪い取ることになるのだよ。マリヤの人生(命)に関わる事なのだよ、とイエスは言われたのです。マルタの心にある罪を指摘された言葉です。
③ マルタとマリヤ
 私たちの日常生活はマリヤとマルタが交錯しています。むしろマルタであると言わざるを得ません。マリヤである事は難しい。日々、神の言葉をさえぎりながら、心配と思いわずらいの中で、多忙な生活をしています。が、このような者を見捨てないで呼びかけて下さるのがイエスです。「マルタよ、マルタよ」と。ここに私たちの望みがあります。そしてまた、マリヤが「聞き入っていた」という訳語が、いみじくも言い表しているように、≪彼女はみ言葉の中に入り込む。主イエスはそれを心から喜んでおられる≫。ここではマリヤは何もしていません。イエスが働いておられます。み言葉を語ることに、主もまた没頭しておられます。私たちは主イエス・キリストのご臨在、その言葉、その業に生かされているということです。ご安心下さい。信じて行きましょう。今ここで、既に私たちは他のどんな所でも知り得ない静寂の中で、主イエスの足もとに共に座す時を過ごす事ができました。神さまは愛ですから、私たちが耐えられないような試練に会わせる事はなさいません。思いわずらいから解き放って下さいます。日々、主の言葉に聞き入る心に生かして頂きましょう! 自分を高ぶる思い、人を裁く思いから自由にして頂きましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.9.22 nk


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