主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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聖霊降臨節第12主日礼拝 説教 「バベルの塔の記事」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年8月25日

創世記11章1節~9節

「バベルの塔の記事」 要約
① バベルの塔の物語 
 この物語は、バビロン市のエテメナンキと呼ばれるジグラット
(高塔神殿)が何かの理由で建てかけのまま放置されていたのを見た人々は、なぜだろうと不審に思い、ある人々はそれが神の裁きの故だと解しました。この事は、メソポタミヤからパレスチナに移住した後のイスラエルの人々に伝えられ、「混乱(バーラル)」という語と「バベル」という町名の語呂合わせで、神が言語を混乱させられたから未完に終わったという話になりました。民族は一つの言語であったのが、神から離れて、人間の力で、都市を建設しようと試み、神の阻止によって言語が混乱(バベル)させられて、全地のおもてに分散させられ、これによってその町の名をバベルと呼ぶようになった、という内容です。この物語は、神が言語を乱されたため、塔が未完に終わったという話と、人類が神によって分散させられたという話とが、二つ複合されています。人類の言語の多様性と、人類の分散という二つのモチーフが、神の干渉によって起こったという点で統一されています。
② 人間の自己神化と自己栄化の罪
 同じ人間でありながら、なぜ言語が多様に分かれて通じないのか。特にイスラエル人にとって、神が唯一であるにも拘らず、人間の言語が多様である事は、何としても謎でした。「塔の頂を天に届かせよう」(4節)という事は、人間が自らを神の高みまで押し上がろうとする人間の自己神化の現れですから、裁きを受けねばならない。一方、町の方は、神によって造られた人間が、全地に散在して自然を管理する事が神の期待であったのに、人間は文化的な大都市を形成して文化的に自己主張を企てたのです。だから、やはり裁きを受けねばなりません。このように、その二つのテーマは、どちらも、先の創世記3章の堕罪物語と同じく、人間の自己神化の罪と、それに対する裁きでありました。同じ高い塔でも、ゴチック建築における尖塔は神の栄光を指し示すものであるのに対して、バベルの塔は、人間の自己神化の象徴になっているわけです。文化が神の栄光をあらわす器となるか、それとも、人間の自己栄化の手段になるかの違いがここに見られます。
③ バベルの塔の記事
 神は、人間の罪と反逆、高慢なふるまいの故に人間を見捨てて、破壊に向かうままに放置されるでしょうか。5節に「主は降って来て」とあり、7節にも「降って行って」とあります。神は必ず人間の企て、営む所に介入してこられ干渉します。厳しく裁くと共に、常に恵みをもって人間の敗れを繕ろわれ、救済の手を差し出されます。私たちは、「バベルの塔の記事」に注目する時、神が降って来られる以上、必ず救いの希望があり、神の救済の業がなされると確信します。たとえ人間にとって辛い厳しい裁きであっても、神のなされる事は「みな時にかなって美しい」(コヘレト3:11)。神は壊し、又、建てられます。神は人間のために「都を用意され」(ヘブル11:16)る方です。人間を創られた神は人間の高慢と愚かさを見ておられます。神は御子イエスを降下されました。主イエスはキリストとしてこの私たちの世に受肉して降って来られ、自ら人間の罪とのろいを引き受け、十字架上で人類を贖われました。主は陰府にまでも降り、復活して天にのぼられ、ペンテコステの日に聖霊を降し、教会が誕生し、今ここに聖霊が満ちています。私たちは再び降って来られる終末の日を待望しつつ、与えられた命を大切に、前向き肯定的に生きて参りましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.8.25 nk



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