主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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復活後第6主日礼拝 説教 「もう泣かなくともよい」

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年5月26日

    列王記上17章17~24節 ルカによる福音書7章11~17節

「もう泣かなくともよい」 要約
① 風立ちぬ、いざ生きめやも 
 堀辰雄著『風立ちぬ』の冒頭に、「風立ちぬ、いざ生きめやも」というヴァレリーの言葉が引用されています。若い娘が婚約中に不治の病に冒され、明るい町から郊外へと隔離されて、療養所にいます。婚約者の青年と一緒に“わたし(父親)”が見舞いに行きます。娘の死期が近いことを知って、なすすべもなく戻るのです。帰る道路、林の中を「風」が渡っていきます。ピューと唸る風、サァーと頬を撫でる風、沈黙の中で「風」の音だけが響きます。そこに「風立ちぬ、いざ生きめやも」と響いてくるのです。新約聖書において霊を意味するプニュウマには、風や息という意味もあります。私たちの日常生活の中で、どこからともなく新鮮な風が吹いてくる。むしろ人生の危機において、愛なる神から聖なる霊、命の息が吹いてくる。その時「さあ、生きていこう」という新しい力が生まれてくるのです。無所有、無力であっても、病や災いや苦悩、虚無と絶望の中にあっても、聖霊は私たちが新しく生きて行こうという意欲をもたらす原動力なのです。
② やもめの一人息子の死
 この物語は、ナザレの南西にあったナインで、町の門の近くで起こった、実際にあった出来事です。一人息子を失うやもめは、神を見失った人間の象徴的な姿です。人間の困窮の局面、その最たるものは死です。人間に生じる死に、人は打つ手を持ちません。大黒柱である夫の早すぎる死というこの家族に生じた悲しみに対し、「あなたの神、主は神々の中の神、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる」(申命記10:17-18)という言葉を、町の人々は受け止め、愛の業を注いできたのでしょう。だが、そうした人間の愛の業では届かない問題が生じました。食物と衣服を与える業には、町の人々が関与することができたとしても、彼女の息子を生き返して与えることは不可能です。葬列について何の言葉もルカは書いていませんが、そのこと自身が一つの意味を持っています。やもめの深い悲しみに対し、町の人々は言葉を失っているのです。死は、人間それ自体では誰もが慰めを見失い、言葉を失うような困窮そのものなのです。
③ もう泣かなくともよい
 死の悲しみに引きゆかれる参列に、もう一つの行列が出会います。この先頭に立つキリストは、十字架を通り、墓の只中を通り、死を命に変えてしまう行列です。言うまでもなく、その行列は教会です。それ故に、ナインの町の門で葬列を飲み込む喜びの行列は、主の日の朝毎に教会に向けて出現する行列、そして教会から世に向けて出て行く行列にまで繋がっています。ルカが注意深く使っている「憐れに思い」(13節)の原語スプランクニゾマイは、はらわたを意味する言葉です。単なる心の動きとしての感情だけではなく、はらわたを引き裂くような肉体の変化さえ刻むほどの感情ということです。人間の憐れみが「きわめて限定された同情である」のに対して、この主イエスのスプリンクニゾマイは独特です。死体に触れてはならないという律法の禁止規定を越えて、棺の傍らにお立ちになり、先立って、「もう泣かなくともよい」と言って下さったのです。主が棺に手をかけられておられるのだから、もう泣かなくてもよい、ということです。勿論、それは律法主義的に涙を禁じるということではなく、流されている涙をキリストが必ず乾かして下さるということです。主イエスの父なる神は、あなたを最善にして下さいます。信じましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.5.26 nk



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