主日礼拝 説教抄録  2019年度
    
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受難節第5主日礼拝 説教 「十字架上での対話」                    

日本キリスト教団茅ケ崎堤伝道所
2019年4月7日

    ハバクク書3章17~19節  ルカによる福音書23章39~43節

「十字架上での対話」 要約
①三つの十字架 
 ゴルゴタの丘には、三本の十字架が立てられました。中央には主イエスが、その両側に二人の犯罪人がかけられました。一人の犯罪人が言います。「お前がキリストなら、自分自身も、俺達も救ってみろ」。彼が地上で残した最後の言葉は、自暴自棄の捨て台詞でした。何の反省もなく、自分の罪を他人にかぶせ、社会に責任を転嫁する態度です。もう一人は申します。「お互いは当然の結果として罰を受けているのだ。が、この方は何の悪い事もしていない」。不思議な事に彼は、主イエスの無罪を告白する事ができました。同時に自分の罪を認めます。悪い社会の中にあっても、犯罪は社会機構の欠陥のせいでも、人心が冷淡な為でもなく、彼自身の責任である事を告白して、潔く刑罰を受けようと決心します。そして彼は主に謙遜な願いを述べます。「主よ、御国においでになる時に、私を思い出して下さい」。彼は自分が天国に入れてもらえる権利も資格もない事をハッキリ知っていました。頼るすべもない、悔い改めを示す機会もない、正に絶望的な瞬間です。
②あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
 彼はただ打ち砕かれて、主の憐れみと恵みにすがるのです。が、正にこれこそが悔い改めた魂の祈りです。信仰者の態度です。その時、中央の十字架の上から、赦しと救いの言葉が与えられます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。主は十字架を負い、私たちの罪を贖って下さった事によって、永遠の命、死んでも生きる命が与えられると言うのです。私たちは、主イエスの十字架の前にぬかずいて、自分の罪の責任を潔く告白し、ただ憐れみの御手にすがりたいと思います。ゴルゴタの丘には三本の十字架がありました。一つではありません。第一は罪の報い、悪のなれはてで、同じく「十字架を負う」といっても、負うべきでない十字架です。第二は、真に悔い改めた魂が負うべき十字架です。私たちの持つべきものです。第三は、主イエスの十字架で、私たちには負い得ないものでしょう。しかし、求めなくても主は、隣人のため連帯性に生きよと、その十字架を共に負う恵みを与えて下さるのです。信じましょう。
③十字架上での対話
 今朝の『ルカ福音書』に記された、十字架上の主イエスと、同じく十字架上の二人の犯罪人との対話は、主イエスの最後の対話です。中央の十字架を取り囲んで、主と、十字架につけられている二人の人の姿は、教会を表わしています。これまで主が、信仰や救いについて語る時、その救いは信仰の中に招き入れる言葉でした。ここでは特に、十字架につけられている主が、自分と共に十字架につけられている男に向かって、救いを語り、救いを直に告げています。なぜ?私たちは、この主との対話を読む時に、私も罪人だと言っても、この男ほど悪くないと思い、教会の中でも“キリスト者のくせに”と人を裁き始める事がなきにしもあらず、と考えます。ハバクク書3章の、この雌鹿のように軽々と主の力によって立つ事がないと、私たちは、いつまでも自分の功績を数える重い足かせから、中々自由になれません。主の力によって、正に十字架によって、翻らせて頂くという事より他ありません。この雌鹿のように突然、高い所にまで跳び上がる事ができる軽々した脚を手に入れるのは、私たちが手に入れるのではない。この事をこの男が願いを述べたように、私たちも翻らせるその事を願って、洗礼をうけましょう。聖餐に与りましょう!

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日本キリスト教団 茅ケ崎堤伝道所
牧師 三原 信惠
 更新:2019.4.8nmk


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